ラストステージとなった今日の舞台。
書くべきことは多々あれど、一番私の心を打ったのは、
やはりユダとジーザスの場面。
裏切ったあとの、髪も乱れて堕天使のような趣のユダの登場は、
いつ見ても痛々しい。
彼は上段のほうから、転げ落ちるようにして現れる。
小さく「ジーザス… ジーザス… 」とつぶやいている。
もう覚悟を決めているジーザスに比して、
自分の方が刑罰を受けるようにおののいているユダは、
ジーザスの顔をまともに見られず、思わず逃れようとするが、
どの方向に向かっても、パシーン!という効果音とともに、
強い光で行く手を閉ざされ、身動きが取れない。
この場面で、ジーザスはユダに強い”気”を送っている。
上半身に力を込めた肩の動きが、その光と音にシンクロしているのだ。
ジーザスは自分の意志で、ユダの行為を全うさせようとしている。
ようやくジーザスのそばに近づいてきても、
身体を折りたたむようにしてわなわなと震え、顔を伏せているユダ。
そんな彼を抱擁するジーザス。
一瞬、熱いものに触れたように拒むユダ。
まるでいじめられ続けた子が、差し伸べられる手にびくんとおびえるように。
でもジーザスは彼を抱きしめて言う。
「友よ。為すべきことをせよ」
この時の、厳しくも崇高な顔。
抱きしめられてすがりつき、震えながらもやっとジーザスの顔を見て、
その顔にそっと触れ、頬を寄せるユダ。
そう、今まで私が観たユダは、頬を寄せるに止まっていた。
しかし、今日のユダは、ジーザスに接吻したのだ。その唇に!
静かにそれを受けとめるジーザス。
ああ、ユダ…
朝陽さんのユダは、公演中にどんどん成長して力強くなり、
アドリブも利くようになっていたけれど、
役への共振も深まっていったのだと思う。
もともとユダがイエスに接吻することは、聖書に記されている。
それは捕縛するために来た者たちに、
「私の接吻する相手がイエスだから、その人をつかまえるように」
という合図のためだった(マタイ第26章47-49)。
でもこの舞台で見せた接吻は、ジーザスへの愛そのものに思えた。
この公演中に彼の少年時代の詩や文をまとめた本を読み、
その痛ましいまでの純粋さや危うさに心打たれ、
ユダへの思い入れが強まっていた私は、もう胸いっぱい。
私よりたくさん観劇しているKさんから、
22日の公演では初めてユダがジーザスの頬にキスしたと聞いていて、
その後はそれで通すのかしらと思っていたけれど、
24日も25日も、やはりこの場面では頬を寄せるだけだった。
ラストステージだったからこそだろうか。
最初で最後の接吻。彼にとって特別な思いだっただろう。
しばらくじーんとしてしまった。
こんなにも苦悩し、最後には自ら縊れて命を絶つユダも、
カーテンコールでは、再び爽やかな顔で現れる。
その涼やかな顔を見ると心からほっとする。
お名前通り”朝陽のように爽やか”なのだ。
この初舞台の体験は、本当に実りあるものだったことでしょう。
彼の今後に幸あれ!
*千秋楽全体の感想は、別項にて。
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