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2010年12月26日23:21

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ユダの接吻

ラストステージとなった今日の舞台。
書くべきことは多々あれど、一番私の心を打ったのは、
やはりユダとジーザスの場面。

裏切ったあとの、髪も乱れて堕天使のような趣のユダの登場は、
いつ見ても痛々しい。
彼は上段のほうから、転げ落ちるようにして現れる。
小さく「ジーザス… ジーザス… 」とつぶやいている。
もう覚悟を決めているジーザスに比して、
自分の方が刑罰を受けるようにおののいているユダは、
ジーザスの顔をまともに見られず、思わず逃れようとするが、
どの方向に向かっても、パシーン!という効果音とともに、
強い光で行く手を閉ざされ、身動きが取れない。
この場面で、ジーザスはユダに強い”気”を送っている。
上半身に力を込めた肩の動きが、その光と音にシンクロしているのだ。
ジーザスは自分の意志で、ユダの行為を全うさせようとしている。

ようやくジーザスのそばに近づいてきても、
身体を折りたたむようにしてわなわなと震え、顔を伏せているユダ。
そんな彼を抱擁するジーザス。
一瞬、熱いものに触れたように拒むユダ。
まるでいじめられ続けた子が、差し伸べられる手にびくんとおびえるように。
でもジーザスは彼を抱きしめて言う。
「友よ。為すべきことをせよ」
この時の、厳しくも崇高な顔。
抱きしめられてすがりつき、震えながらもやっとジーザスの顔を見て、
その顔にそっと触れ、頬を寄せるユダ。

そう、今まで私が観たユダは、頬を寄せるに止まっていた。
しかし、今日のユダは、ジーザスに接吻したのだ。その唇に!
静かにそれを受けとめるジーザス。

ああ、ユダ…
朝陽さんのユダは、公演中にどんどん成長して力強くなり、
アドリブも利くようになっていたけれど、
役への共振も深まっていったのだと思う。
もともとユダがイエスに接吻することは、聖書に記されている。
それは捕縛するために来た者たちに、
「私の接吻する相手がイエスだから、その人をつかまえるように」
という合図のためだった(マタイ第26章47-49)。
でもこの舞台で見せた接吻は、ジーザスへの愛そのものに思えた。

この公演中に彼の少年時代の詩や文をまとめた本を読み、
その痛ましいまでの純粋さや危うさに心打たれ、
ユダへの思い入れが強まっていた私は、もう胸いっぱい。

私よりたくさん観劇しているKさんから、
22日の公演では初めてユダがジーザスの頬にキスしたと聞いていて、
その後はそれで通すのかしらと思っていたけれど、
24日も25日も、やはりこの場面では頬を寄せるだけだった。
ラストステージだったからこそだろうか。
最初で最後の接吻。彼にとって特別な思いだっただろう。
しばらくじーんとしてしまった。

こんなにも苦悩し、最後には自ら縊れて命を絶つユダも、
カーテンコールでは、再び爽やかな顔で現れる。
その涼やかな顔を見ると心からほっとする。
お名前通り”朝陽のように爽やか”なのだ。

この初舞台の体験は、本当に実りあるものだったことでしょう。
彼の今後に幸あれ!

*千秋楽全体の感想は、別項にて。
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