○2008年03月20日の日記再掲載「どうにも肩がコッちゃて」とか言ってませんか。 若ぶって、しらばっくれてもだめ。マッサージ機の売れ行きがみなさんの肩のコリようを証明しています。なにしろ国土交通省も十数台購入したくらいですから。(2008年時、大いに
そう言えばねぇ、思い出した。「大谷は肘を壊さないといいが」とぼくはWBC前、まだ練習戦が始まった頃かなすでに予言していた。これがねぇまことに残念だけど、当たってしまった。 この際だからそのメカニズムというか中身を順を追って説明します(ここか
◯2008年11月16日の日記を大幅加筆修正 立川談志が立川談志に成ったのは´63年頃、それから数年たって一冊の本を出しました。「現代落語論」というタイトルの本で、談志はその後もたくさんの本を出しているのだが、談志のオリジナルナの考えが書かれた本と言
◯ぼくの予言のいま:「井ノ原氏の妙な好印象の息の根を止めた」 テヤンデェ、どっこい世の中こんなインチキがまかり通ってたまるけぇ。聞いた瞬間に怒ったよね。「出刃持って追いかけてやろうか、こいつらめ」 すいません、出刃は危険ですね。桂文治を書い
藤圭子は音楽を学ぶためにニューヨークのライブスポットを歩き回ります。 マンハッタンに入る時に、まったく見知らぬ黒人のトラッカーのトラックに乗せてもらったように気楽にね。「あんた、それでほんとに大丈夫だったの」と部屋に帰ってからルームメイト
記者会見2で「ジャニーズ廃業」を発表したところで大筋の流れは決まったのですね。あとは規模だけ。跡形もなく無くなるのか、小さな形で存続するのか、(まあ無理だと思うけど)元のように帝国を再現できるか。 ぼくは、当初は形を整えたところで結局、時
◯2007年1月15日の日記再掲載「ゴジラ」の第1作は1954年(昭和29)に東宝で製作されました。監督は本田猪四郎、黒沢の盟友とされていて後年は黒澤映画の演出補佐を務めています。特撮監督は円谷英二、日本が生んだ特撮の神様ですね。3年後の「明治天皇と日露
ジャニーズは廃業(解散)としたところで大筋の流れは決まりました。実際にきちんと実行できるかがこれからのポイントになっていきますね。記者会見(2)の大きな問題点ですが、曖昧でどなたもツカミ切っていないようなので指摘します。1.東山氏の本音ボロ
どうも視点が甘い。「キムタクは失敗したよね」という感想で終始している。好きな者には甘くなる、差別用語だが女子的センスだね(メリー喜多川と同じ精神)。だからダメなんだよなあ。空を見る。 はっきり説明します。ジャニー喜多川の行為は強制性交です
藤圭子は、そのまま待ち人の来ないニューヨークにいた。なぜいたのか。もしかしたら遅れてくることもあるかと思ったのかもしれないね。「やあ、待たせたね」 わびるような表情、恥ずかしげだけどあたたかみのある声。その声が聴こえた瞬間ほど、人は幸福を
引退からニューヨークまでの藤圭子の動きを時系列で追ってみよう。 79年の末、引退リサイタルが終わり、沢木の何回目かのインタビューも終わるとひとりでハワイに渡り、ハワイ大学の聴講生になった。その手続きはハワイ大学に在籍していた友達が先に進めて
◯2006年10月16日の日記再掲載(大幅加筆) 下谷上野の山かづら 桂文治は噺家で でんでん太鼓に笙の笛 など申しまして、江戸の尻取り言葉になっておりますように、桂文治は江戸から続く名前でして、桂の止め名。止め名と言うのは、その亭号でいちばんえら
◯2006年11月16日の日記再掲載 月田さんは戦争から戻ってくると、すぐ巡査になり、生涯をそのまま一巡査で終えた人でした。(これは、とてもめずらしくて、普通にしていれば1階級くらいはどうしても昇進するもので、巡査のまま定年を迎えるのは、ごくまれな
あの黒い大粒の瞳が泣いていた。いや泣くだけではない、うれしい、悲しい、懐かしい、ゆたかで様々な表情を見せていた。あーどうして、あなたは今日のように表情ゆたかに歌ってこなかったのか。本気すぎたのか。ほんの少しの表情で、ほら、このようにこころ
◯2008年03月27日の日記再掲載「石っさん」のところで少し話した固定観念としなやかな思考について、少しですが説明をさせてください。理屈っぽくなるけど、ごめんなさい。「年を食ってると頭かたいからね」的なあいまいな一般論で通り過ぎちゃうのは、あまり
◯2008年3月27日掲載 石っさんは、石塚という。 身長5尺8寸(175センチくらいかな)、がっしりとした肩、当時としては相当な大男だった。当時というのは、東京オリンピックの少し前、1961〜2年の頃だ。 地下足袋にニッカボッカ、やや厚手の薄いグレーのダ
世の中は、数歩遅れてやって来る。しょうがないな、いつものことだ。というのがぼくの感想。 あ、これ、ジャニーズのことです。古くは60年前、最近では5月にごくごく素直なジャニーズの問題点を書いたのだが、世の中はさほども変わることなくここまで来ち
`79年秋、藤圭子は、二つの不透明な恐怖を抱えていた。 ひとつは、ステージ恐怖症という掴みようもないものだった。 デビュー十周年の舞台の袖、藤圭子はカラダを硬くして、恐怖で立ち尽くしていた。「大事な舞台だったんだよね。そうなんだけど、ス
◯2010年12月7日の日記再掲載(タバコをやめる直前の文章、この文章のテーストが僕らしい。特にラスト、少しは真っ当な感じがする。ここんとこ汚い男ばかり書いているので、汚れ落としです) ぼくは、10月からほぼタバコを止めている。ほぼというのは、「1日
◯2007年01月23日の日記再掲載早稲田の体育局には風呂がある。 運動部員用の風呂なのだけど、その中に時々およそ運動部員とは思えない貧弱なカラダの学生が風呂につかっている。「うーん」 おっさんが風呂に入った時に出す、あのまんまの声を湯舟に入るとも
運命とは、意外とそこいらに無造作に転がっているものだ。 カメラアングルの話をします。ドラマの中で運命が動き出す時は、カメラはキリリとフォーカスを合わせ待ち構えています。運命というものは特別な存在として見る人の前に主役として登場します。 と
`77年秋は勝負の年だった。前年、藤圭子の演歌の集大成と言って良い「聞いてください、私の人生」をリリースした。だが思ったほど伸びない。ノビル高音を生かした、この時点での藤圭子のすべてを尽くした素晴らしい仕上がりだ。「声が枯れても、つぶれても、
新栄プロに移籍したのは`75年2月だった。 移籍の途端にどうやら物事が好転してきたのかもしれない。新曲「さすらい」で紅白復帰がかない、翌年には「はしご酒」が中ヒットとなる。錦糸町で藤圭子が流しをしていたその姿が、目に浮かぶような曲。石坂が何度
タイトルは二葉あき子さんの「お別れルンバ」を使わさせていただきました、無許可使用です。悪ふざけではありません。後でつながります。「先生、今日、お話があります」(ぼくは、もう純ちゃんがなんの話がしたいかわかっていたよ。「そーか、そーか、ぜん
五木寛之は、怨歌の命名とともに、本人も言ういささか不吉な予言もしていた。 「この歌い手が、こういった歌を歌えるのは、たった今この数か月ではないか、という不吉な予感があった。これは下層からはいあがって人間の、凝縮した怨念が、一挙に燃焼した一
◯2006年10月03日の日記再掲載「シャンバロー」というのは、昭和30年代の東京のボーイズもののいちばん古手。いわば親分のような存在で、色物、膝代わりとしてはとても上等な存在で、決まって大看板の前に出て来る芸人でした。組み合わせは、 三味線(柳ちゃ
`73年末は暇な暮だった、3年続いた紅白出場はとだえていた。「先生、紅白、落選しました」という藤圭子の大急ぎの電話に「そーかあ、カラダを休めていこーかー」と石坂はゆるいキャッチボールのように答えていたという。 カラダとは実際のところノドのことに
2013年8月22日は藤圭子の命日、その8月22日の前日、宇多田ヒカルが「まつもtoなかい」という番組の中で主に2つのテーマで話しをしていました。(息子にメールで教わりあわててチャンネルを合わせました) � 嵬民栃震遏廚砲弔い董↓◆峅颪い燭た諭∩粟鄒�
◯2007年04月03日の日記再掲載 小学校の校庭は、東西に長く伸びていた。東のはずれには、砂場がありその片側、西に面した位置に鉄棒があった。 ぼくは、まだ小学生で、そのいちばん高い鉄棒はぼくらの背よりずっと高い位置にあって、それは見上げるほどの高