<前書き>
6月2日〜3日、山口県在住のマイミク・monoさんが上京。
当初はこの日に山本耕史くん主演の時代劇「陽炎の辻」ロケが行われると聞いて、
一緒にワープステーションに見学に行く予定だったのだが、
常に流動的なスケジュールのならいで、その日のロケはなくなってしまった。
せっかくの東京。
替わりに史跡めぐり、耕史くんのドラマのロケ地めぐりで楽しんでもらおう、
と何事にも熱心なKさんがみっしりと濃密なコースを組み、案内してくれることに。
2日は私には先約があり、3日の日曜日だけ一緒にめぐった。
メンバーはKさん、monoさん、ふんじさん、私の4人。
この日のスタートが南千住なのは、彼女がたまたまそこに宿をとったからだが、
歴史有るところなので、まずはそのあたりの関連史跡から。
その後「恋に落ちたら」の龍太の魚屋や鈴木ねじや六本木ヒルズ、
放映間近の「陽炎の辻」の原作にある、磐音の住む六間堀あたり、
「マチベン」事務所のえびす堂、沖田総司の墓所などを回る合間に
深川江戸資料館で磐音の世界にひたったり、
monoさんがファンだという高村光太郎のお墓参りをしたりと、
実に盛りだくさんだった。
<回向院(えこういん)>
地下鉄日比谷線の南千住駅改札前で落ち合う。
道の向かい側すぐが回向院。「南千住の回向院は初めて」とKさん。
それはもちろん回向院といえば本家は両国だ。本所回向院ともいう。
http://www.ekoin.or.jp/
境内で行われた相撲興行が大相撲の起源とも言われ、
鼠小僧次郎吉の墓などもあって名高いところ。
ちなみに耕史くんのL5Y初演の劇場両国シアターX(カイ)は
この回向院の隣の敷地内にあった。
こちら南千住回向院のほうは本所の別院。
このあたりは小塚原(こつかっぱら)刑場だったところで、
刑死者を供養するため創建されたとのこと。
安政の大獄の折、この刑場の露と消えた吉田松陰や橋本佐内の墓もある。
入り口付近に「解体新書」表紙のレリーフがあり、
磐音の原作を読んでいる一同、一様に喜ぶ。
第四巻「雪華ノ里」
http://www.futabasha.co.jp/?isbn=4-575-66140-6
で磐音は中川淳庵という蘭医と知り合うが、
その後も友としてたびたび登場する淳庵は実在の医師で、
杉田玄白・前野良沢らと共に「ターヘル・アナトミア」を訳したひと。
彼らはここ小塚原刑場で、刑死者の腑分け(解剖)に立ち会ったのだ。
江戸にはもうひとつ、品川宿近くの鈴が森刑場があり、
罪人が江戸生まれの場合には生まれ場所に近いほうで処刑されたという。
すぐ近くの延命寺には高さ二メートルを超える通称「首切り地蔵」がある。
常磐線の開通の際に分断されてしまったのだが、以前は回向院の同じ敷地内だった。
刑死者を悼むために作られたのだろうけれど、その巨大さは異様。
死者をずっと見守ってきたであろう姿に畏怖を感じる。
刑死者の亡骸は手厚く葬られるわけではなく、
埋葬も浅くて凄惨なありさまだったらしい。
この前の通りがコツ通りと呼ばれるのは、
小塚原(こつかっぱら)のこつ、という説と、
掘り返すと骨がざくざく出てきたから、という説がある。
<素盞雄(すさのお)神社の祭神輿>
コツ通り沿いの回向院から、日光街道沿いの円通寺へと歩く。
道筋のあちらこちらでにぎやかな掛け声。祭り好きとしては心が浮き立つ。
路地を行くのは子供神輿だが、途中で幾度も神輿を左右に傾ける。
あ、今日は天王祭か!これは素盞雄(すさのお)神社の祭神輿だ。
普通、神輿に対し前後左右に通した四天の担ぎ棒が一般的なのだけど、
ここのは二本だけの二天棒。だからこそ左右に激しく傾けることが可能なのだ。
小さい子供神輿まで一丁前に振っているのが可愛らしい。
これが「千貫(せんがん)神輿」と呼ばれる重量の本社神輿ともなると、
その迫力たるや凄まじいらしい。
もっとも帰宅後調べてみると、今年は本社みこしの渡御は行われない「かげ祭り」で、
来年が「本祭り」とのこと。
この祭りのことは、少年ジャンプの長寿連載「こち亀」にも詳しく描かれている。
(コミック第89巻「下町 素盞雄神社祭の巻」)
下町の行事だの、両さんの少年時代の叙情的な思い出が描かれた一連の作品には、
作者の東京下町への愛があふれていて大好き。
千住大橋近くの素盞雄神社は由緒ある立派な神社なので、氏子さんは多い。
http://www.susanoo.or.jp/
個人的に江戸四宿歩きをした際、
南千住宿にあたるこの辺りも、調べながら何回か歩いたので、
道筋途中の瑞光小学校などという名前を見るだけでも嬉しくなる。
素盞雄神社には、夜に光を放ったという奇岩が祀られているのだが、
その光の中から素盞雄大神と飛鳥大神が現れたと言われていて、
瑞光という地名はその伝説から来ている。
<円通寺>
http://www6.plala.or.jp/entsuji/
ここはいつ来ても、ちょっと妙な独特な雰囲気。
日光街道側から見ると、寺上部の巨大な観音像が目立ち、敷地はがらんとした感じ。
左手奥のフェンスに囲まれた一角には、戊辰戦争の折、
上野の山の戦いで銃弾を受け、後にここに移設された寛永寺の黒門が、
蜂の巣のような弾痕も生々しく建っている。
フェンスの扉を開けて一角に足を踏み入れると、
右手に並ぶのは「戦死墓」と「死節之墓」。
先のほうは彰義隊士の墓。刻まれた文字はこれのみで名前なし。
「死節之墓」のほうは、鳥羽、伏見、函館、会津など、
幕府軍の各藩士の戦死者の供養のための墓で、
土方歳三、近藤勇、など九十七名の名前及び
「神木隊二十八名」の文字が細かく刻まれている。
戦に負けるというのは本当に酷いものだ。
負けた彰義隊、幕府軍の方は「賊軍」とされ、
遺体は上野の山に野ざらしで埋葬すらされなかったのを、
この寺の和尚が決死の覚悟で供養した後官許が下り、
上野の山で荼毘に附したうえで、この寺に埋葬したという。その数266体。
上野の戦いのあった慶応四年は閏月があったので、
5月15日はすでに夏の気候だったろう。
そんな中の死屍累々。言葉に出来ない酸鼻をきわめた光景であったはず。
その臭気と無惨を思うとたまらない。
函館戦争の折、陸軍奉行として官軍と戦った大鳥圭介の追忌碑や、
函館で戦死した土方の遺体を引き取って埋葬したとされる小芝長之助の墓など、
連なる死者の記念碑や墓も皆幕府軍側のもの。
この一角が暗い感じがするのは、
区の保護樹木に指定されている立派なスダジイなど、
大きな木の陰に覆われているばかりではないだろう。
彼らの無念はここにも留まっているのだろうか。
ほの暗くて湿っぽいせいか蚊が多くて、あまり長居は出来なかった。
境内右手には「首塚」がある。
八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首48を此処に埋め四拾八塚を築いたという。
「小塚原」という地名は、この塚から来ているとか。
この話を最初に知った時、慄然として総毛立つ思いだった。
「蛮族」とされ「賊首」とされたエミシたちの首。
彼らには彼らの文化があったのに、
中央政府はいつだって、差別し、理不尽に征服してしまう。
この寺の前の道はその土地の歴史とまっすぐにつながっている。
祭りの音が遠ざかり、たくさんの無念の死がすぐそこに見えるよう。
奥州・日光への道筋である千住の歴史に思い沈みながら、南千住駅へとって返す。
(次は蔵前)
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