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2015年11月10日23:42

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パート57 『殺人カメラ』そしてイタリアン監督の傾向

『殺人カメラ』(1952;ロッセリーニ)
  デシーカの『ミラノの奇蹟』(1951)もそうだったけれど、イノヴェーションの世界で取り残された人々が表される。
  アメリカンが土地を買収しにやってくるが、戦後においてもいつの時代においても搾取がなくなることはない。フェリーニもアントニオーニもいる国で、ベルトルッチがロッセリーニとパゾリーニ以外をなぜ作家と認めないのかが、彼の嗜好/思考が分かる。搾取や共産性を言いたいこととして表すだけではなく、『ミラノの奇蹟』(註1)、そして『自転車泥棒』すらもセンチメンタルというか、叙情的なものであったデシーカに比し、ロッセリーニもパゾリーニも叙事的である(ベルトルッチがはたしてそれをちゃんと継承しているかは別にして。ところで、そういえばであるが、『殺人カメラ』でお金のことばかりを話しする神父が表されていたけれど、『1900年』にもそうした神父あらわされていたな)。ロッセリーニ、そしてパゾリーニは感情に流されることを促すのではなく、事象をより酌み取り表さんとする(註2)。
  こうした寓意的なセンスで表してくれる方が、真っ向正直にネオレアリスモに表すより、ロッセリーニを分かり易くさせてくれる。私的には、こうしたものを嗜好する。



註1 私の記憶がただしければ、『ミラノの奇蹟』はもはやこの世界ではなにも幸せなことないがゆえにラストで天上に昇っていくように思え、拍手喝采ではなく、寧ろ、あのエンディングはブルーな気持ちにさせてくれるものであった。しかしあれはやはりカソリックの国、“救済”が表されているのだろう。きっとイタリアンは気持ちがスカッとしたのだと思うけれど、イタリアンではない私はカソリック的な意味での“救済”がいまひとつピンとこないので、スカッとはしなかった。
註2 作家の傾向
  ・ デシーカは悲劇的な世の中を、不条理として嘆き悲しみ叙情的なものにする、古今東西において一般受けする物語的というか、そうしたロマン派のような気がする。
  ・ ロッセリーニは嘆き悲しむではなく、そうした不条理は受け入れ、だから、こうした世の中において、倫理を掲げる傾向にあるように思える(それはスピリチュアルな時期に入った彼にも言えることだろう)。ただ、これはこうだと言い切ると、説教くさい親父的なものにも思えてくるものであり、ましてや何が何だか方向性がますます分からなくなっていく時代が訪れるのであり、人々も頭の中そうした感覚に陥ってくるのであり、だから、キャプラ同様に、ロッセリーニの理想主義から人々は遠のいていったのかもしれない、と思ちゃったりもする。イタリアではそうした訳が分からない時代には60年代から入っていったのであろうか、フェリーニとアントニオーニがますます台頭してくる。
  ・フェリーニは不条理を受け入れつつ、されどそれが人生、そうした人生を謳歌しようとする傾向があり、アントニオーニは見えない世界をよく観察し考察し、されど見えないものがあり、それを恐怖とする傾向にあるように思える(註3)。
註3 パゾリーニの70年代のメガヒット「生の三部作」の約10年前の、アントニオーニの『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』は「愛の不毛三部作」と言われたらしいが、“不毛”はある種の流行語的なものであり、何が何だか方向性が分からない時代において、ある意味、人々を落ちつかせる言葉であったのではないかと思われる。笑 70年代に向かうとき、さらに混沌としたムードへ。パゾリーニが生の三部作をつくるとき、アントニオーニは『砂丘』を、フェリーニは『サテリコン』を生み出す。不毛という言葉も消し飛ぶぐらいに不毛な時代に突入したのであり、そこでは爆発しかなかったのだろう。時代はけっこう変化しているのであった。

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