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2015年09月12日11:03

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気狂いピエロ

『気狂いピエロ』(Pierrot le Fou:1965)
  我々は南仏を触覚する。“現実”という異郷の地に送られる。オープニングタイトルにアルファベットが順に著されたり冒頭に本屋で本を探すベベルが表わされるからといって、このテクストが小説に変わる新しい小説言語を構築しているということではないし、また、ゴダールは新たな現実の地平線を追っているのでもない。テルケるのでもギドゥボーるのでも、そしてボードレーるのでもない。あくまでゴダーるのである。
  暗闇のなか気狂いピエロはリュミエーる。ピエロは映画言語を苦心して模索するのでなく、もののあらわれを語らしおん。このトラジコメディ アクション、感動/エモーションを求めて南仏へジャーニー、こちら側にいる我々もまたトリップする。巴里の民俗学である『勝手にしやがれ』に比し、『気狂いピエロ』は自暴はあるが自棄はない。そこにあるものは南仏だ。自暴南仏である。考察でもなく、そして詩でもない。もののあわれが現前する。映画館において、異郷の現実を見/視て聴/聞く。観賞者がいるいないに関係なく、フェルディナンが歌う腰のラインもマリアンヌの歌う運命線も在るのだ。モノは顕れている。人生が生きている(註)。そして我々はそれを触覚する。夢に生きている僕らが夢をつくった、ピエロはそう言う。la - mo – rt、死を内包する生は永遠にある。観賞者がいるいないに関係なく、我々はそれに触れている。
  光によって触覚されるとき、この実践が理論を生む。夢=芸術だけに生き世間を知らないかのように見えるピエロだけれど、ベトナムやアルジェリアを僕らは確かに知っている。トラジコメディを超えた“現実”がある。ピエロは爆発し無となる。『たのしい知識』において言われたように、此岸と彼岸が結ばれるこの生の世界でミゾトデマンは未だ切望される。南仏という“現実”を我々は触覚している。
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★ 註  マリアンヌは中身の見えない謎の女だけれど、彼女にはそもそも中身などない。見えるだけのものしか存在しないのである。シネマなのだから。中身が在るとすればアンナカリーナ。演者と登場人物の境界線の無効化はゴダールでよく言われるけれど、そうした実存そのものはあっても、ベルナール・ノエルや最近見たのでいえば『新世界』や『放蕩息子たちの出発と帰還』でのオシャレな女性たち、或いは『勝手にしやがれ』のアメリカンブランドなジーンセバーグや、ゴダールのテクストでのファッショナブルなアンナもそこには在るのである。ファッション誌のPhotoのような虚構性と実存そのものの併存は、いまさら言う必要ないことながらも、今回パッとしてハッとして目に入った。


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