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2015年09月12日11:03

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ソドムの市

『ソドムの市』(Salò o le 120 giornate di Sodoma:1975) 
  我々は北伊を触覚する。“現実”という異郷の地に送られる。我々はソドムの市を視て聴き感じる。そこでの、ブルジョワジーが求める極限の美は恥辱を与えることであり、尊厳を超えたところにある。それは“無視すること”を表わしている。愛、尊厳、そして人間性は無視されている。アブジェクシオンは蜘蛛や痰なのではなく、そうした人間性に表されるのである。この社会で「人間性」は隠蔽されている。このテクストで表わされる出来事が、現在で言う「理性」なのである。
  ある者は嫌悪感あらわすかもしれないし、ある者は笑い哀しむのかもしれないし、またある者は、快楽し本来あるべき合理性を欠いた自身を発見するのかもしれない。此処は終戦末の伊太利亜なのではなく、世紀末以後の現在進行形のこの世界である。合目的のない理性の方が健康なのかもしれないが、人間性のない理性はもはや理性とは言えないのではと感じてくる。はたしてどうなのか、絵空事なのかもしれないイストワール『アラビアンナイト』の次作で「人間性」とはなにかが問われる。
  『アラビアンナイト』にも婚礼は幾度も重要に表わされていたが、この供儀は社会を導くものであるが、『ソドムの市』においてもその華やかな舞台は表される。「変態地獄」「糞尿地獄」「血の地獄」と進みながら、その供儀の形式に子孫繁栄の姿形はなくなってゆく。社会の形成は無視され、欲望の型のみがそこに膨らんでいく。社会的な合目的性はなくなり、被支配者だけではなく支配者の姿も無惨になりゆく。人間性は問われる。様々に問われる。公爵が言うように、欲望の結果、人間は生まれたのであり、(イタリア的な思考であるけれど)懲罰名簿に表わされるように、人は罪を背負っている。「人間性」とはなにかが異郷の現実に表わされる。
  感情が、エモーションが、此処に表わされる。リニアーな流れのなかネオレアリスモ的な考察眼があらわされ(註)、そんなフロウのなかヴァッカーリ夫人がこちら側に踊りながら寄って来るショットから生の三部作にも通じる煽情が顕れてくる。煽情は最初から顕れている。モノガタリは最初の章「地獄の門」とあるときから表わされている。イストワールは皮肉な運命によって表わされる。パゾリーニは最初から物語っているのである。
  運命は古今東西、物語に表される。『アッカトーネ』の運命、『アポロンの地獄』の運命がカメラアイで切り取られる。『アラビアンナイト』であらわされるように、人々は運命によって導かれる。運命のみだ。『アラビアンナイト』の王となる奴隷は華々しくいるのではなく、そこに人としている。豚小屋に向かうピエールレオのように、運命があるのみ。人はナチュラルに存在する。「人間性」という言葉には人生の表層のみにしか遺らないものなのかもしれない。王は悪魔によって猿となり、姫は死と向き合いながら炎となる。澄んだ眼はくり抜かれ、フランキーノは永遠の終わりが来るまで死ぬことができない。この「人間性」というイシュー、パゾリーニ自らスキャンダルとして未だ語り聞かせているのだが、我々がソドムの市に触覚するモノは現実のなかにある“現実”にあること語っているように思える。“現実”は自然として此処にはるはず。そしてそうであるはずとき、異郷の地は遠くに存在しないこと知ることできるのだと想う。
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★ 註  この眼差しは『アッカトーネ』だけではなく、60年代後半の『アポロンの地獄』や『豚小屋』にもこの距離感あり。

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