『アラビアンナイト』 ( Il Fiore delle mille e una notte:1974)
ヌレディンとズムルードのモノガタリにアジズとアジザのハナシやその他のエピソードは組み入れられているのではない。眼差しはイストワールに”共有”されている。
まず、そういった印象を今回はもつ。
”共有”する眼差しが表される。この眼差し、イストワールには必要なりける。”主観”は合理性の欲望につながってしまいかねないが、それは物語小説や政治には適しても、人間性にフィットするものではなし。マナを司る”共有”する眼差しがこそ、生たるエロスたる生を制するのである。Say yes。
テクストには合理性は求められず、感情が貫かれる。人々は素朴に、よく笑う。人間とはそういったモノたちなんだ、と触覚する(註1)。人間と世界が在るかぎり、恋心は貫かれる。そして、婚礼などといった供儀には(人間)社会に孕む危険が伴われる。そのことは環境ではなく感情がイストワールをつくりだしていること表しているのである。分かれたこゝろは常に探し合い求め合う。★
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ヌレディンとズムルードのモノガタリに人々の感情が潜在してしまっているのではない。眼差しは歴史に”共有”される。社会は危うさを伴っている。感情はクライシスを生み出しかねないが、それと同時に、我々は喜怒哀楽に包まれている。”共有”する眼差しは愛を触覚する。集団的無意識がそこにあるのではなく、人のこゝろが愛であるがゆえ求め合いあるのである。『アラビアンナイト』がイストワールであること、人々に共有される。パゾリーニは『奇跡の丘』と同様に、あるがままに、それを表しているのだろう(註2)。
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『アラビアンナイト』は”愛”を表していた。『ソドムの市』は対極にあるような双生児。欲望の触覚のように思える。そして、欲望も愛も生=エロスであること変わりなし(註3)。パゾリーニはたしかに”触覚”を顕している。そうしたTale、人間が確かに持つものであること、なにか感じてしまう。ヴィスコンティはやはりメソッドがネオレアリスモだから『ベニスに死す』の愛においても、『地獄に堕ちた勇者ども』の欲望においても、なにか考察や観察眼にみえてしまう。パゾリーニまたまたよくよく、こんど再考しよう。
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★註1 パゾリーニが過ごしたスラム街の人々がよく笑う人柄なのか、アラビア乃至アフリカの人々がそういった人柄なのか、或いは、笑う人々に囲まれること喜びとして受け止めるパゾリーニの人柄が出ているのか、きっとどれも真実なのであろう。
註2 パゾリーニは『奇跡の丘』に関して、福音書をあるがままに表していると言ってはる。
註3 この「生」という意味でのエロティシズム、丁寧に深くみていかなければならない。明日には明日の風がふく。
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