＜七面宮・夜桜の出会い＞
ドラマ『薄桜記』は、桜の美しい谷中七面宮で、
夜桜見物に来ていた千春と典膳が偶然に出逢うところから始まった。
はじかれた桜の枝に額を打たれ、石段で思わずよろめいた千春を、
たまたま近くにいた典膳が抱きとめて介抱する。
一瞬気を失った彼女がうっすら目をあけると、
目に飛び込んできたのは一面の桜をバックにした凛々しい若侍。
まるで少女漫画のような甘々の展開だったけれど、
美男美女の絵になる場面で、テンポよくその世界に引き込まれた。
＜原作の七面宮の桜＞
原作の二人の出会いはもっと慎ましやか。
七面宮で偶然出会った後、思いがけぬ縁で祝言をあげるのは同じだが、
正確に言えば千春が典膳を見染めただけで、彼はそれに気付いてはいない。
出会いは祝言に先立つこと三年、彼女がまだ十五の春である。
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谷中七面宮へお詣りにいって、広い境内にはいると
最初に目についた一本の桜が、満開の花を咲かせていた。
彼女はお付きの女中を振り返って、「美しいわ…」
目をみはって笑い、そのままたたずんで眺めた。
そばへ近づくより離れている方が美しさの立ち勝るのを
少女らしく信じたのである。
風の少しもない、長閑な春の日であった。
…
この時向うから父と連れ立った青年が歩いてきた。
本院に所要でもあって立寄ったのらしく、
年配の武士の方は足早に事もなく桜の下を通りすぎる。
…
青年は父を追うて足早に同じ桜の下を通ったが、
チラと花を見上げ、あっさりこれも通り去った時に、
風のない筈が、沢山の花びらがハラハラ降る如く地面へ散ったのである。
ほんの偶然かも知れないが、見ていた千春には印象の強い場面だった。
ふつうなら、通りがかりの武士に視線を注ぐような不躾けはしない。
目をふせて行交う。
この時は近づいて来る顔を見まもった。
青年の方では彼女に一顧も与えず通り過ぎた。
これもまた武士の躾を受けていたのである。
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五味康祐『薄桜記』（新潮文庫 p.538〜539）
このいかにも武士らしい折り目正しき若侍を、
桜の落花とともに心に留めた千春の想いは初々しい。
嫁いだ後、その出会いの時のことを打ち明けると、
典膳は愉しそうに「ほう…そちに見染められていたとは嬉しい」と笑い、
「ではいつか折を見て今度は夫婦で詣ろう」
「帰府したら必ず行こう。待っていてくれるな？」と言うのである。
すでに大阪勤番が決まってあわただしくなっていたのだ。
のちに回想されるこの言葉の、なんと切ないことだろう。
運命のいたずらにただただ涙。
＜延命院への道筋＞
谷中は神社仏閣の多い、昔ながらの風情が残る街。
古い建物好きの散策者には格好の場所で幾度も訪れているが、
延命院の中にはなぜか足を踏み入れていなかった。
この境内に七面大明神が祀られている「七面堂」がある。
・二人が出逢った『七面社』
http://rkxrk.jp/cs/catalog/rkxrk_article/pc/contentsid_110124021635/pagenum_4/catalog_TBTE2012070799_1.htm
・延命院｜荒川区西日暮里にある日蓮宗の寺院
http://www.tesshow.jp/arakawa/temple_wnippori_enmei.shtml
最寄りの駅はJR日暮里駅。
北改札を出て西口のほうへ出ると目の前が御殿坂。
のぼってゆくと寺と店がこもごも立ち並んでいる。
山門に戊辰戦争の際の鉄砲玉痕が残る経王寺前を過ぎ、
西日暮里方面へ通じる道幅の狭い諏訪台通りを横切ると、
すぐ右手に現れるのが延命院。
右に山号の「宝珠山」、左に院号の「延命院」が刻まれた山門は、
通りからだいぶ奥まっているが、境内はわりにゆったりした印象。
門を入って左手に「七面大明神安置」の碑が立ち、
右手には都の天然記念物に指定されている樹齢六百年と言われる椎の大木。
向かって正面が延命院本堂で、
連なった屋根三つの一番左端が七面堂である。
＜境内の様子＞
残念ながら江戸時代には花見の名所とされていたほどの桜の樹々は
一本も見当たらず、境内はフラットで広々としている。
戊辰戦争や関東大震災、太平洋戦争時の空襲など、
度重なる災禍にことごとく失われてしまったのだとか。
想像をたくましくして景色を思い浮かべるしかない。
ともかくもお詣りを。
柵のむこうの賽銭箱にお賽銭を入れようとしたら、
足元の地面に「七面宮」と書かれた額がじかに置かれているのに気付いた。
カエデの葉に隠れて文字が見づらい。
何故下に置かれているのかは分からない。
扉は閉ざされ、祀られているという七面大明神は拝めないけれど、
お堂の七曜の紋は印象的。
中心円を囲んで周りに六つの円が並ぶ星紋。
北斗七星と同体とされる妙見さまもこのご紋だったな。
七面大明神は七面天女とも呼ばれ、法華経を守護する女神。
日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、
日蓮宗が広まるにつれ、各地の日蓮宗寺院で祀られるようになったとか。
お堂の後ろに広がる墓地はかなり広大のようで、
その上の空もひろびろとして見えるが、そちらへは入れない。
谷中は名の通り山あり谷ありの起伏に富んだ地形で、
ここが山の上のほうであることは確かなのだが、
ドラマで見られるような石段はない。
あれはあくまで実際のロケ地の景色なのだ。
＜七面坂＞
延命院を辞して再び通りに出ると、
「質屋おぢさん」の看板が目立つ中州のような一角を中心に、
下り坂が二股に分かれている。
右手は谷中銀座に下る有名な「夕焼けだんだん」。
宗林寺方面に至る左手が「七面坂」。
くの字型に折れ、お寺の塀から卒塔婆なども見え隠れして谷中らしい景色。
千駄木方面から七面宮を目指すひとたちは、ここを上ったのだろう。
『薄桜記』原作には、典膳がひそかに身を隠しているという谷中瑞林寺を、
お付きの女中を連れた千春が探し回るところもある。
その時彼女の脳裏に浮かんでいたのは、思い出の七面宮。
はたしてそこで再び二人はめぐり逢う。
瑞林寺は三崎坂に面した瑞輪寺のことだろうか。
さまざま思いめぐらせながらゆっくり谷中めぐりするのもお勧め。
（注）
お寺の閉門は結構早い。
最初、他での用事をすませて夕方4時半頃訪れたら、
すでに閉ざされていて後日出直すはめになった。
くれぐれもお早めに。
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