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2011年01月12日01:13

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ドラマと原作の差異(『目線』『最後の忠臣蔵』『二人の軍師』)

通常、映画などを見る時には、事前にあまり情報を入れずに
ほぼまっさらの状態で行くことが多いのだけれど、
耕史くんの出演する作品だと、やはりたいへん気になって、
事前に丹念に原作を読み、彼の役どころについて色々想像してしまう。

思い返せば一年前にはスペシャルドラマ『樅ノ木は残った』の発表があり、
分厚い原作を読み込み、あれこれ楽しみにしていたのに、
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ドラマの駆け足ぶり、七十郎の最後の不自然ぶりに唖然とし、
がっくりして視聴感想を書く気も失せたものだった。
読み応えのある原作に感銘を受けただけに、失望もまた深い。
もっとじっくり描いて欲しかったのに、
原作は二の次で、所詮特定役者の顔見世という気がした。

ここ最近の出演作品でも、多かれ少なかれ
「原作と違いすぎる!」と歯ぎしりする部分が。
いつもきちんと役をつかんで演じている彼には何の不満もないけれど、
映像というのはつまるところ監督のものなのだ。
原作を大幅に変更し、似ても似つかぬものになったドラマなど、
何のためにこの作品を選んだのか首を傾げたくなる。
それぞれの原作は好きだっただけに口惜しい。
私は彼さえ出れば喜んで観るわけじゃない。
良いドラマ、良い映画が観たいのだ。
あまりくどくどしくあげつらうのもどうかと控えていたけれど、
ちょっとまとめて記しておく。

・『目線』
これはもうまったく別物。
ヒロインのあかりは、あんなしおらしいタマじゃない。
姉の貴和子もあんな分りやすいいじめ役じゃない。
あれじゃ一昔前の少女漫画だ。
むしろ二人の印象は逆に近いというか、
幼い頃の意地悪のためにあかりがあんな身体になったことに罪悪感を感じ、
貴和子はちょっと引っ込み思案で主張しない感じだし、
あかりは意地っ張りで涙など見せない。
一方、加納拓磨のあかりへの気持ちは、妹に対するような親しみであり、
伴侶として選ぶのは別の女性(あかりの友人)なのだ。
あかりのほうは子どもの頃からずっと彼を思い続けていて、
そのあたり、障害者としての行動範囲の狭さが痛ましいのだけれど、
単なる幼馴染としか感じていない男と、
一途に思いをつのらせている女というすれ違いは、ままある悲劇。

独自に調べた結果、犯人は彼女だと確信して自首を勧める拓磨と、
あっさりそれを肯定し、彼の運転する車で警察へ向かうあかり。
涙を必死でこらえる彼と、目を見開いて意地でも涙を見せない彼女の、
シニカルで残酷な幕切れこそが原作の持ち味だったと思うのに、
ドラマのお涙ちょうだいの安っぽさと来たらどうだろう。
二人して宿に泊るなんて有り得ないし、おまけにあんな自殺騒ぎとは。
ご都合主義もいいところ。底が浅すぎる。
あかりの母や伯父についても表面的。
刑事たち(原作は三人トリオ)の、事件背景の過去を探る件も、
本来は松本清張的な深みがあったのに。

実は原作小説のほうは、最後の謎解きの場面まで、
彼女が車椅子に乗っている障害者だとは一言も書いていない。
だからこそのどんでん返しなのだが、これは文章でしか出来ない芸当。
ドラマでは絶対不可能だろう。
拓磨が”小さい頃にはこの廊下はもっと長く見えた”と言うのに、
あかりが”私には今もあの時のまま”と笑って返すのが哀しかったのに。
車椅子の彼女の「目線」は、二人で廊下を駆けた幼い頃と同じままなのだ。
その哀しみが描かれないドラマでは、タイトルの意味さえ分らない。

・『最後の忠臣蔵』
このタイトルでいいのかと思うほどめざすところが違っていた。
これも映画化が決まった2009年11月に原作を読んで、
期待していたのに肩すかしという感じ。
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そもそも原作の主人公は寺坂吉右衛門のほうであって、
可音と孫左衛門の話は最後の章に出てくるだけなのだが、
完全に孫左と可音が主役、というか可音役の桜庭ななみちゃんがメイン。
清楚にして品のある面立ちは悪くないけれど、
彼女があまりに奉り上げられているようでいささか居心地が悪い。
おまけに育ての親と義理の娘のような二人の関係を、
叶わぬ恋のように描いているのに面喰う。
人形浄瑠璃の『曽根崎心中』まで絡めてくるのはいくらなんでも不穏すぎる。

元々脚本の田中陽造氏は、男女の情念を核に不思議な世界を描く方で、
その手になる『ツィゴイネルワイゼン』や『ヴィヨンの妻』などが印象に深い。
そう思えばいかにも田中氏らしい世界ではあるのだが、
原作と離れ過ぎていて、何のためにこの原作を基にしたのか分らない。
脚本は監督の意向で何度も書き直されたということだが、
孫左衛門と吉右衛門の薄原での斬り合いは取ってつけたようで不自然。
サムライ映画なのにチャンバラのひとつもないのは地味だから、
海外向けの見せ場サービスということなのか。
安田成美演じるおゆうさまの孫左への口説きも余計なことだったような。
忠義の武士を描くよりも、視点はあくまで情念の世界。

耕史くんファンとしては、彼が演じるところの茶屋修一郎の人となりが、
殆ど描かれていないところも物足りず、
気持ちが孫左に向いたままのような可音を嫁に迎えても、
幸福になれないような気がしたほど。

ただ、現在発売中の「月刊シナリオ」2011年2月号に掲載された決定稿では、
可音が修一郎に対して心を開く場面や、
婚礼の夜の寝所場面できちんと覚悟の挨拶をし、
「抱いて下さい」という台詞も書かれている。
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それが画面で見られればずいぶん印象は違ったろうに。残念。

・『戦国疾風伝 二人の軍師』
上の二つに比べて、こちらはかなり好印象。
半兵衛の透明感は感涙ものだったし、
高橋克典さんの官兵衛も好対照で、主役たちは万々歳だった。
ただ、原作『竹中半兵衛と黒田官兵衛』(島津義忠著、PHP文庫)の、
不思議に静謐な雰囲気に感銘を受けただけに、
脇の人物たちはだいぶ設定が違うなあと。

私が原作でもっとも印象的だったのは楓である。
設定がまるきり違っていて、彼女は舞の名手の旅芸人。
義理の兄は多十ではなく幻蔵だ。幻蔵も目薬売りではなく旅の傀儡師。
半兵衛との運命的な出会いで互いに惹かれあい、契りを交わす。
彼女の佇まいはこの世のものではなく、何かの精か妖かしのようで、
生身の人間臭さは微塵もなかった。
化生のものと交わったために半兵衛が寿命を縮めたのかと思えるほど。
これは原作のファンタジーというか、夢幻能的な部分。

楓と半兵衛の交わりは生涯二度だけで、
最後は半兵衛の墓の前で舞い納め、そこで果てる楓。
うつくしく妖しく儚いイメージで心惹かれたけれど、
配役を知った時点で、多分設定は違うんだろうなとは思っていた。
だってしほりちゃんは徹底的に現世的存在だもの。
半兵衛への思いも片思いに過ぎず、普通に働くいじらしい侍女だった。
ドラマの半兵衛は清廉潔白な愛妻家でなければならなかったのだろう。

『陽炎の辻』の脚本も手掛けられた尾西氏の描く半兵衛は、
たしかに磐音を彷彿とさせた。
台詞も表情も本当に良かったのだけれど、
息子をいさめて「小便を垂れ流してでも…」の台詞だけは、
原作にもあるとはいえ、状況が全然違う。
関係ない場なのに無理やり言わされてしまったようで、
いささか納まりが悪いような。

原作ではそれほど描かれず影の薄い妻・ちさは、
ドラマではわりとおおらかな良妻賢母となっていた。
「香の物」が彼女のテーマになってましたね。
健気だけれど、いささか駄目押しが過ぎてくどい気も。
細かいところでは、多十の真昼の幽霊ぶりだとか、
現代のものとしか見えない黒御影石の半兵衛の墓には絶句。
こういう細かい部分の演出も大事にして欲しいもの。

しかしながら半兵衛の清らかさうつくしさだけには文句のつけようもない。
最後のあのうるんだ瞳が、秀吉の言葉を聞くうちに、
ほんのわずか伏せられ、諦めたようにふっと口角が上がる切なさ。
最初から最後までその清澄感は際立っていた。
もともとこの世のものではない人が、一時仮住まいのように身を置いたあと、
元の世界に帰っていったようなイメージ。
かぐや姫のような貴種流離譚だったのかとすら思えた。
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