ちょうど日本幻想文学集成の犀星本を読んでいる時に、
朝日新聞夕刊文化面の『私の収穫』というコラムで、
仏文学者の海老坂武氏が
ドラマ『火の魚』に触れられていたのが目にとまった。
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この春NHKで放送されたドラマ「火の魚」がずしりと心に残っている。
老いた流行作家と若い女性編集者との出会いと別れ、
命のかかった切ない物語、と一応言っておこう。
初めはやたらに威張っている老作家（原田芳雄）が、
言うべきことをぴしりという女性編集者（尾野真千子）を前にして、
次第にたじたじ、やがてそわそわしてくる。
尾野さんは抑制された演技もさることながら、
その日本語のなんと美しいこと。
原作が知りたくなり室生犀星の『火の魚』を求めた。
人を食った語り口の名文だ。
次にその母胎と言える『蜜のあはれ』を開くとこれは会話だけからなる小説。
女性の化身である金魚と老作家とのぬめりのある会話が可笑しい。
文庫の解説を読んで驚いた。
女性編集者のモデルとして栃折久美子の名があげられている。
これはあの『森有生先生のこと』の著者ではないか…。
…（後略）…
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朝日新聞2010年10月7日夕刊文化面より引用
へえ、あの実に印象的な女性編集者にモデルがいたのか！
私が読んだのは海老原氏の求められた文庫本ではないため、
そういう作品解説は特になかったから、氏のこの文章で初めて知った。
ドラマの中でも原作でも、折見とち子という女性の名前は、
変わっているというか、妙にひっかかるものがあったのだが、
「とちおりくみこ」→「おりみとちこ」というアナグラムだったのか。
なるほど、と納得。
栃折久美子さんのことを調べて驚いた。
たいへん著名なブック・デザイナー＆エッセイストの方だったのだ。
筑摩書房を退職されたあと、ベルギーで伝統的な製本工芸を学び、
1980年西武百貨店池袋コミュニティ・カレッジ内に「ルリユール工房」を創設して、
2002年に後進にその座を譲るまで、責任者として製本技術を指導してきたとのこと。
http://www2.odn.ne.jp/reliure/
「ルリユールreliure」とは、フランス語で「本を綴じ合わせる技術」の意。
仮綴じ本をいったんばらして、麻糸で丈夫にかがり直してから、
革やマーブル紙といった美しい素材の表紙を貼り、
さらに金箔やモザイクなどによってさまざまな装飾を施し、本を作り上げること。
その言葉は一応知ってはいたし、本好き人間として興味はあったのに、
足を踏み入れないままうかうかと来てしまったせいで、
うちからもほど近い池袋西武で長年教えてらしたことを知らなかったとは。
恥入ってしまう。
栃折さんは、実際に犀星の『蜜のあはれ』の装丁もなさっている。
興味をひかれ、『森有正先生のこと』を図書館で借りて読んでみた。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480814555/
これがまた実に読みやすく、内容も本当に興味深く、
まるで著者とともにその場にいて体験しているようで、一気に読了し、
本をパタンと閉じてほうっとため息をついた時には、
すっかり栃折さんに共感し、ファンになっていた。
タイトルにある森有正氏は、1976年に64歳で亡くなった哲学者、仏文学者。
デカルトやパスカルの研究で知られ、フランス留学後そのままパリに留まり、
フランスが活動の拠点となっていたが、日本へはしばしば一時帰国されていて、
著作の装丁のことがきっかけでブックデザイナーの栃折さんと出会う。
出会いは1967年9月。この時森氏は55歳で、栃折さんは38歳か。
氏の宿泊していた会館に一緒に会いに言ったデザイナーの石岡映子さんは
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エネルギッシュでユーモラス、意外な感じだったけれど魅力ある、と言い、
私はうなずきながら「精悍」という言葉を加えたいと思っていた。
(p.9「出会い」）
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という書きぶりから、
一目惚れと言えるようなインパクトを受けたのだと想像がつく。
この本は、これからほぼ10年にわたる二人の交流が、
森先生の死を持って唐突に終わるまでを描いているのだが、
何十年を経ても色あせない、活き活きとしたやりとりに感嘆してしまう。
先生の死後37年もたった2003年に出されたとはいえ、実に細かい。
なにしろ冒頭から、先生とはじめて会ったのは
”1967年9月1日午後のことである”と断言されている。
その時の先生の服装、なさっていたしぐさまで克明。
よほど詳細な日記をつけていらしたことがよく分る。
大事なことは追体験できるように、隅から隅まで再現するように書く。
私もそれを目指し、そのように書きたいと努力しているから深く共感してしまう。
日付も時間も天候も服装もすべて大切なことなのだ。
先生の著書を読みたくてたまらなくなり、借り集めて一気に読む栃折さん。
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餓えた人が食物を手にした時のように、と言っても過言ではないと思う。
自分であきれるほどの勢いで、それを「食べ」始めた。
ノートを用意して、メモや感想を記し、文章を書き写したりもした。
学生時代にもあまりした覚えのないことだ。
バカ食いで壊れたのは胃ではなくて、精神の構造だった。
しっかりと立っているつもりだった足元がバラバラに崩れ落ち、
天地左右も定かではない宇宙の暗闇に放り出されたような気がした。
(p.9「出会い」）
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ああ、分る分る、この感覚。惹きつけられ、はまりこんでしまう時の気持ち。
それは誰にもとめられない。
先生に宛てて書いた長い手紙のなかの、
「ハンドバッグと寝巻だけ持ってパリ生きの飛行機に乗ってしまいたい」の一文。
確かに物騒というか、あやうく切羽詰まった心情にどきりとするけれど、
熱情もありながら聡明で仕事もてきぱきとこなす彼女を先生も認め、
帰国のたびに、身の回り品の買い物やら、口述筆記などを頼まれて、
ボランティア秘書のような立場になってゆくのに、はらはらどきどきする。
それだけ人間的魅力があり、時には細やかな心遣いを見せながらも、
時には回り全部を振り回すタイラント（暴君）、芸術家特有の強いエゴを持つ先生。
そんな先生を助けながらも、自分の仕事も極めて行こうとする姿に、
はらはらしてしまうのかもしれない。
芸術家二人が並び立つのは不可能だから。先の破滅は知れているから。
東京にアパートを買い、そこに一緒に住んで手伝って欲しいという先生の頼み。
承諾しながらも、タイミングが合わないまま逝かれてしまった虚脱感。
でもなんだかほっとしたような気がするのは何故だろう。
その時々では、約束をすっぽかされたり、きりきり舞いをさせられて、
ずいぶんくるしい思い、さみしい思い、憤りなどもあったろうに、
どろどろした感じはなく、むしろ淡々と事実を羅列されている姿勢に、
潔いような清々しさを感じるのかもしれない。
長い年月を経たのちに書かれたからこそなのだろうけれど。
その渦中にあるときは、とてもこのようには書けないだろうと思う。
本文中、『火の魚』について触れた部分がある。
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誰が「火の魚」のことなど先生に教えたのだろう。
これは、私をモデルにした室生犀星の短編小説で、
『蜜のあはれ』という、金魚と老作家との会話だけで成り立っている
不思議な小説の装本に、金魚の魚拓を使おうと考えた犀星は、
一人の童女の顔を思い浮かべる。
「童女とはいうけれど三十に近い婦人であるが」と犀星は書いているが、
それが私のことで、金魚が燃えながら海に突っ込んでゆくところを、
魚拓につくってほしい、と頼まれる。
そのいきさつを書いたのが、「火の魚」である。
「折見とち子と出てくるのだそうですね」などと先生に言われたり、
… （後略）…
p.84「学習院大学の集中講義II」
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犀星はどんな気持ちで彼女をモデルにとりあげたのだろう。
『火の魚』の折見とち子は、たしかに手先が器用で、
彼女の自作の幻燈人形芝居の悪口をいう作家に対し、
物おじせず反論するところなぞ、
彼女の才気を快く思っていたのかもしれない。
余談になるけれども、この『森有正先生のこと』に出てくる東京は、
私にとってなじみのある、親しい場所も多いので親近感を抱いた。
もちろん世代が違うので、1967年〜1976年は上京前だったけれど、
それでも森先生の定宿である山の上ホテルやそのレストラン、
集中講義で通う目白の学習院大学などは、
近しい場所だから、風景が思い浮かぶのだ。
今の本部が建つはるか前、そこに仮講堂と学生集会所があった頃だ。
目白の田中屋はいまだ健在だけれど、ドンクはすでにない。
いろいろな面で興味深い本だった。
ドラマがここまで導いてくれたことに感謝したい。
森先生の著作もこれから読んでみたいと思う。
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