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2010年03月30日00:38

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ドキュメンタリー『三里塚・辺田部落』(小川プロダクション)

3月20日、武蔵大学のフィルム上映会にて鑑賞。
http://tokoton-ogawa.txt-nifty.com/blog/2010/03/20103-a5a2.html

故・小川紳介監督の作品を見るのは、実は初めて。
山形国際ドキュメンタリー映画祭の発案者だということ、
『ニッポン国古屋敷村』(1982年)が話題になったことなど、
ドキュメンタリーで名の高い方だということは存じ上げていたのだが、
機会を逸したままだった。
作品はビデオ化、DVD化等されていないそうで、上映会に足を運ぶしかない。
まあ私はもともと映画はスクリーンで見る派だから、それは一向苦にならず。
今回こういう機会があってありがたい。

武蔵大学は小川紳介+小川プロダクション映画の作品フィルムを
16本所蔵されているそうで、今回は二日にわたり、5本の上映。
この日も昼から『現認報告書 羽田闘争の記録』(1967年 58分)と
『パルチザン前史』(1969年 120分)が上映されていたのだが、
あいにく他に用事もあって、そちらの2本はパス。
夕方からの『三里塚・辺田部落』(1973年 146分)のみ、
なんとか間に合って見ることが出来た。
およそ2時間半の長尺で、途中フィルムリールの掛け替えもあり、
本当に昔ながらの手触り感覚。

ともあれ、三里塚と言えば成田闘争の代名詞のようなもの。
空港建設反対運動最中の村の記録だが、その腰を据えたつくりに圧倒された。
上映前に、この作品では、シークエンスは11しかないという説明があったけれど、
確かに細かくカットを重ねてゆくというのではなく、悠揚迫らざる長回し。
スタッフも村に住み、そこで生活しながら撮っていったということだが、
中に入ってじっくり向き合わなければ撮れない映像だということはよく分る。

空港の建設について、政府側はずいぶん強引で、
非道な仕打ちを繰り返したということは知られている。
地域をあげ、一丸となってそれと戦った記録というのは、
もっと辛いものかと覚悟していたのだけれど、
闘争だけではなく、その時代のその場所の生活そのものが
フィルムに焼き付けられていることを強く感じた。
村の講やその他、互助システムがしっかりしていて、
皆が助け合いながら生活しているたくましさ。

ことに村の女性にスポットをあてた箇所は強烈に印象に残る。
婦人行動隊の一人として闘争にもはりきるタイプの
椿さん(だったと思う)が、子安神のための飾りを野菜で作りながら、
快活にしゃべるところ。

画面にはテロップも出るし、長い説明となると映像の合間に、
昔の無声映画にあるような字幕のみの画面も挿入され、
ところどころ監督が画面を見ながら説明する声も入るので分りやすい。
「この椿さんは屋号がヘエベエと言うんです。
おそらく御先祖にそういう人が居たんでしょうけど。
九十九里のほうからお嫁に来たひとで、やはり見ていると、
浜の気性の影響が強いんですね」というような具合。
(ちなみに他に登場する人たちも、名前のあとに「ツキヌキ」とか
「ヤネヤ」など、みんな屋号が入る)

彼女が作っている飾りは、男根をかたどったもので、
大根を削いで主となる部分を作り、芋だか人参の一部を下部に挿して、
その下の睾丸をあらわし、陰毛にあたる葉っぱもつけてゆく。
「これがちゃんとしてなきゃ子だくさんにはなるめぇ?」と笑う。
こういう土着の行事は民俗学的にも興味深いし、
その活き活きした明るさには圧倒されてしまう。

また、86歳のお婆さんが縁側で若いころに起きた事件や、
いろんな苦労を語るところも圧巻!
子どもが小さいころ、旦那さんが一時的に頭がおかしくなって、
鉈(という一般名称じゃなく先堀リとか言っていたような)で
いきなり頭や足を切りつけられ、近所に助けを求めたことだとか。
「よく助かりましたね」と言われて「切り所が良かったから」「傷はまだある」
と淡々と返すのだけど、想像しただけで頭がくらくらしてしまう。
昔は村中バクチが盛んだったそうで、「オレは苦労した」と繰り返してたけど、
その言い方はさばさばしていて、まるであっけらかんと聞える。
このひとたちの生命力の強さはすごい。

「このおばあさんは写真とムービーとの違いが分ってなくて、
撮影しに来てくれるというんで、普段着じゃなくきちんとした格好をして、
僕らは普段の格好がいいなあと思ったんですけど、
ひとまわり大きい紫の座布団の上に座って、丹精している松の鉢を脇に置いて…」
という説明の言葉通り、写真館での記念撮影に臨むような気概が見えていじらしい。
ちゃんとした格好で撮ってもらって、遺影に使おうと思っていたのだとか。
このシークエンスの終わり頃に挿入される、彼女の十八歳当時の写真は別嬪さんだ。
日本髪を結い、傘を手にしている。やはり気概を感じる。

反対運動の主力である青年行動隊へのすさまじい迫害。
村の若者の中には、迫害への抗議の意味をこめて自殺した者まで居るし、
言いがかりのような罪状で逮捕されてしまった青年も居て、
働き手を失った家の農作業をどう手伝うか、面会はどういうふうにするか、
集会でそういった段取りを含め、皆の覚悟をうながすような場面は、
人質を取られた陣中のようで、やはり重い沈黙に支配されがちだけれど、
それでもこの村の結束の固さ、胆のすわり具合がひしひしと伝わってくる。
そのあとの農作業場面の女たちの会話からも、この部落が他の地域と比べて、
図太いと言われるほどゆるぎないことに感嘆せずにはいられない。

ラスト近く、拘束されていた若者二人が釈放され、
村人総出で公民館でお祝いの宴を張るところは
一種のクライマックスで感慨深かった。
村を愛し、戦う気持ちに決して嘘はないものの、
「ここに帰るしかないから、やらざるを得ない」という青年の複雑で切ない気持ち。
その数日後、老女たちが例年通り行なった念仏講の映像で作品は締めくくられる。
連綿と受け継がれてきた村の暮らし。
最後の画面に出る「この部落を、壊しにくるか」という文字が目に焼き付く。

1973年当時、この戦いはまだ真っ盛りだったけれど、
今見る私たちは、これが負け戦だったことを知っている。
それを思うとなんとも言えずこころが揺さぶられる。
このたくましくも素晴らしい暮らしを打ち壊した国家とは何なのだろう。
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