以前、舞台版が日本で上演された時は、またおのぼりさん向けの大作ミュージカルか、とスルー。映画化の話を聞いても全く食指が動かなかったのですが・・・。
我、誤てり、という感じですね。いやー、まさかこういう話だったとは。
世界が凄まじい勢いで狂気に覆われようとしている今、広く観られるべき作品だと思いますね。
「ウィキッド ふたりの魔女」、堪能しました。
ここで描かれるオズの国は、決してファンタジックな夢の国ではありません。不義や不実に悪徳、格差や差別に溢れた混沌の世界。そう、まさしく私たちの世界の合わせ鏡。「ウルトラセブン 第四惑星の悪夢」に登場する「地球にそっくりだけど地球よりヤバい星」を思わせる不気味な国として描かれているのが興味深いです。
そんな世界の中で出会った二人の女性、エルファバとグリンダ。
物語は、彼女たちがいかにして「オズの魔法使」における「西の魔女」と「北の魔女」になっていったのかを追っていきます。
緑の肌を持って生まれたことで親からの愛を受けられず、周囲からも疎まれて育ったエルファバ。しかし彼女は偏見と悪意に満ちた環境の中で自ら学び、類い稀れな知性と深い洞察力を持った女性に成長します。
そんなエルファバはシス大学で最悪の出会いをするハメに。相手はルームメイトのグリンダ。
「オズの魔法使」では優しく美しく賢い魔女だった彼女ですが、本作ではなんと、金持ちの娘として甘やかされて育ったため平気で他人を見下し、いい子のふりをして要領よく立ち回る、根性曲がりのパッパラパーとして登場。
水と油のような二人が事あるごとに対立し、悪感情を曝け出す姿はハタから見てると結構愉快です(スプリットスクリーンの使い方も絶妙!)。
これまで順風満帆で生きてきたグリンダから見れば、自分をちっとも認めてくれないモリブル先生がエルファバに目をかけているのは何よりも不可解。自分は優秀だと思い込んでいる上にルッキズムの権化でもある彼女には、そりゃ不快でしょうね。
エルファバにしてみれば、いつも取り巻きにチヤホヤされて女王様のように振る舞うグリンダの姿は、長い間自分を蝕んできた「劣等感を植えつける残酷な刃」の象徴に思えた事でしょう。
そんな二人が前半でしっかりと描かれているからこそ、中盤以降の彼女たちの結びつきが愛おしく思えます。若干の誤解の結果とはいえ、グリンダとエルファバは互いを認め合うこととなり、相手に自分の中にないものを見つけて補完し合う間柄となるのです。
そのプロセスでグリンダが知ったのは、エルファバがそれまでの人生の中で味わってきた怒りと絶望。どんなに真っ当に振る舞おうと賢くなろうと周囲は全く認めてくれず、ただその緑色の肌を嘲笑うだけ。抗っても無視しても、その侮蔑の視線からは逃れられない。
「この人は、他人にどう思われてもいいなんて思ってない。ずっと傷つけられてきたその心を抱え、苦しんできたんだ。それをずっと隠してきただけなんだ」
そのことに気づいたグリンダは、何があろうとエルファバと共にあろうと決意します。
でもその一方で、エルファバに対する「別の感情」が微かに彼女の中に湧いてくるのですが・・・、これはおそらく次の作品で深く描かれることでしょう。
二人の女性の対立と友情が主軸になっている本作ですが、その背景にあるものも見逃してはなりませんね。
ここではオズの国を侵食する恐ろしい事態が描かれています。
それはまるで、1930年代のドイツにおけるナチズムの台頭。
この作品の映画化企画が本格的に始動したのがいつ頃なのかは分かりませんが、第1次トランプ政権の時あたりから顕在化した不寛容の空気が反映されているのは間違いなかろうと思います。
今、私の周囲にも結構、こういう人がいます。
DEIなんて偽善っぽいよねー。
ポリコレなんてうるさいよー。
こんなふうにカジュアルに「新しく浸透し始めた叡智」を馬鹿にし、冷笑することは、この世界の堕落と崩壊の一助になりはしないでしょうか。
「ウィキッド」で描かれる人心の荒廃と不寛容の拡がりは決してスクリーンの中だけのものではないように思えてなりません。
ログインしてコメントを確認・投稿する