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2023年12月25日17:04

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なかった落とし物、その9

「ママの母だった老婆」
奇妙な空間の奇妙な二人

 あの時、筆者は、まだ二十五歳だった。売れているのか、いや、実際に売っているのかどうかさえ分からないようなマイナーなマニア雑誌を作っていた。通常の書店には置かれていない。大人の玩具屋と言われるような場所、あるいは、ビニ本専門店のようなところに行けば置かれていると聞いたが、それを筆者は見たことはなかった。そんなところに行く時間がなかったからだ。
 撮影、取材、編集作業、執筆、デザイン、全て一人で行う。コンピュータ編集ではないので、版下の修正作業さえも手伝うことになる。忙しかったのだ。
 そんな忙しい中、筆者は駒込のマンションに六十歳を越えたと思われる老婆と二人でいた。部屋は豪華だった。ダイニングキッチンがあり、応接間のような、リビングがあり、その奥には本来なら寝室なのだろう、と思わる部屋があった。寝室として使っているのではない、と、そう思った。というのは、そこだけが、豪華なマンションには不釣り合いな部屋だったからなのだ。
 床はビニール素材のチープなもの。ベッドはパイプがむき出しになった簡易ベッド、その上には、床と同じようにビニール素材のマットが敷いてある。ガラス戸入りの豪華な書棚のあるリビングとは異質な空間だった。そして、筆者は、そちらの奇妙な部屋の冷たい簡易ベッドのパイプを背にビニールの床に座っていた。そして、その老婆も同じ床に座っていたのだ。二人の間には、コーヒーカップを二つ置いたらそれで終わりという小さな円いテーブルが一つあるだけ。
「すみませんねえ。すぐに帰るって言っていたんですけどねえ。電話ぐらい入れてくれたらいいのにねえ」
 ジャニスというSMクラブのママと、その部屋で新人女王様の取材兼研修を行う予定で筆者はそこにいた。待ち合わせたのは午後十時。すでに時計は十一時になっていた。待ち合わせの時間の九時にママから電話があり、少し遅れるから、お婆さんと待っていてくれ、と、そう言われた。お婆さんは、聞けば、ママの本当の母親だということだった。しかし、その電話を最後に、一時間待っても、ママは来ないし、電話もなかった。
「駐車場代とか大丈夫なんですか」
「電車ですから大丈夫ですよ。それに、もともと、始発まで取材や研修のプレイをしながら過ごす予定ではありましたから」
 新しい女王様は、かなりの美人だという話だった。研修用には自分の専属のM男を使うので、その研修の様子も撮影して欲しいということだった。よくある話だった。まだ、ワイセツ写真の現像が気楽に出来ない頃の話なのだ。ようするに取材も出来るし、教育研修用の撮影フィルムの現像もしてもらえる、と、そういうわけなのだ。
 ママから電話が入ったのは、十二時少し前だった。トラブルは新人の女王様との間にあったのではなく、自分の専属M男のドタキャンによるものだった。ママの店があったのは六本木だった。
「帰りに新人ちゃんと奥田さんを送るんだから車で来いって言ってたのに、電車で来ちゃって、しかも、大遅刻でしょ。今、レンタカー屋に行かせてるから、もう少し待っててくれる。大丈夫、帰りは送らせるから」
 と、言って電話を切ったまま、次に、レンタカーを借りに行ったM男が戻らなかった、と、ママから電話が入った時には、深夜一時を過ぎていた。もう、帰ることの出来る電車はなかった。一晩ぐらい新宿や渋谷なら何とでもなるが、駒込なのだ。駒込には地理勘などなかった。そこには性風俗の店などなかったので、用事がなかったからだ。
「お婆さんと寝てくれる。ごめんね。お婆さん、可哀想だから、少し遊んであげてよ。奥田さん、そういうの得意でしょ」
 いや、可哀想なのは、あなたの母親ではなく筆者のほうだろう、と、そう思ったが、それは言わずに電話を切った。ママから、いろいろ言われたのか、老婆はそれこそ可哀想なぐらい青褪めていた。筆者が怒り出すと心配していたのかもしれない。
「あの、ここは、深夜でも、出前がとれるところがあって、と、いっても、ピザとお寿司ぐらいなんですけどね。何でも頼んでいいって言うし、あの、冷蔵庫のビールも好きなだけ飲ませてくれって言うんだけど、どうします」
「ボクは何でもいいけど、彼女はどうします」
「彼女って、あの、私ですか」
「ええ、夕食は食べたんですか」
「あ、ああ、彼女なんて呼ばれたの何十年ぶりで、驚いちゃった。私は、あの娘の朝食用に作った煮物を食べたから」
「煮物あるんですか」
「ええ、田舎のババアの煮物ですから、美味しくないんですけどね。食べてもらえます。どうせ、この様子じゃ、あの娘も食べないでしょうから、私一人じゃ余っちゃう。でも、そんなものじゃ嫌よねえ。やっぱり、お寿司頼みましょうか」
「いや、ボクはまともな家庭に育ってないので、田舎の煮物って、かえって贅沢なんですよ。おふろく、なんて料理屋の馴染みなぐらいなんですからね」
 本当のことだった。青褪めていた老婆の顔は、ほころび、その皺の多い頬に赤みがさした。
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