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2023年12月21日15:40

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なかった落とし物、その6

「万年筆をなくした男」
演じ続けるだけの男

「お前はさあ」
 そう言ってから、男は、少し黙って、自分のウイスキーのロックらしいものを見つめ、その後で、今度は筆者のほうを向いた。
「お前で、いいかなあ。年下だよな」
「もちろん、五歳も年下ですし、業界でも後輩ですしね。それに、以前に、仕事させてもらって稼がせても、もらっていますから」
「お前の、そういう皮肉っぽいの嫌いなんだよなあ。締め切り間に合わなくて事故寸前で助けてもらったヤツだろう」
 皮肉ではなかった。どんな事情があろうと、仕事にはなったわけだし、お金にもなったのだ。さらに言えば、その仕事をさせてもらったことで、次の仕事にも繋がったのだ。
「私は、あなたの、ボクはいつでも被害者ですって態度が嫌いなんです。女にモテて、そんなにお金に不自由しているようでもないし、背も高いし、社交的で、楽しそうで、その上、アレまで大きい」
「お前さあ、俺のこと、そんなふうに見てたわけ」
 そんなふうに見ていた。その上、彼は育ちも良く、上品な大学も出ている。きちんと卒業しているのだ。こちらは八年かけて、結果、中退だ。その上、ジーンズにアーミージャケット姿でショットバーに来てしまう筆者と違い、ラフだが、ブランドのスーツを着て、おそらく流行のネクタイの絞め方をしている。スカウターと言われるナンパ師とか、いんちきプロダクションの男には、ありがちだが、編集者には珍しいタイプの男だったのだ。
「明るい人なんだろうな、と、そうは思ってました。今、変わりましたけど」
「今って何だよ」
「ショットバーって人間が出るでしょ。ああ、この人の本質は暗いんだろうなって、今は思いました」
「ところで、どうして俺の年齢知ってたの」
「いいじゃないですか」
「ああ、いいよ。俺もさあ、実は、お前の年齢も大学も知ってたんだよ。俺はさあ、お前こそ明るくて社交的な男だなって思ってたよ。だって、お前、楽しそうにエロ本作っているだろう」
「マニアですからね」
「俺は、いやいや作ってるんだよ。でも、好きなように作らせてくれるのはエロ本しかないしな。お前は芸能関係の仕事から来ただろう。俺、知ってるんだよ。実は、俺も、そっち系だったから」
 ああ、この男も、あの煌びやかな世界の裏で、強引な笑顔と無意味な声出しを強制され、陰鬱な空元気のままに生きて来たのか、と、そう筆者は思った。しかも、筆者は裏方志願の落ちこぼれだが、もしかしたら、彼は表舞台志願の落ちこぼれだったのかもしれないのだ。同じ落ちこぼれでも、本当に悲惨なのは後者の方なのだ。
 新宿の夜が更けて行く。筆者は三杯目のジンのロックに口をつけた。酒にはめっぽう強いはずだったが、すでに、少し酔っているな、と、そう感じた。
「どうして、また、エロ本業界なんかに」
「言ったろう。好きなことさせてくれるのがエロ本しかなかったからだよ。いや、好きに生きさせてくれるところが、この業界しかなかったってことかな。お前には分からないよ。だって、お前、好きに生きているだろう。俺は違うんだよ。好きなことなんてなくてな。仕事も、女も、好きじゃない。趣味もないし、食べるのも、酒も好きってわけじゃないしな。俺には何もないんだよ」
 思えば、その男は、一人で酒など飲まなくてもいいはずなのだ。電話一本で飛んで来る女などいくらでもいるはずなのだから。それが、新宿の外れで一人で飲んでいる。それは、女と飲むよりも一人で飲むことが好きだからなのだ。女といれば明るい自分、面白い自分、格好良い自分を演じていなければならない。どんなに親しくなっても彼は女がいれば本当の自分には戻れないのだ。それはそれで辛いのかもしれない、と、筆者はそう思った。
「恵まれた人生のように見えますけどね。でも、そう見られるから、そこが、また、辛かったりするんでしょうね」
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