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2022年04月21日16:26

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書けないときにやること、その8

 書けないことは読めないことに比例している。書けなくなると、不思議と読むことも困難になる。別に文字が読めなくなるのではない。読み続ける集中力が失われるのだ。集中力がなくなったのだから仕方ない、今は、読書どころではないのだ、と、そう判断するのは危険である。そのまま、生涯、読書が出来なくなることもあるのだから。読めなければ書けない。つまり、もう二度と書くことが出来なく可能性があるということなのだ。
 小説や論文は読めないが漫画なら読めるという状態が、まず、訪れる。次には、漫画も読めなくなり、動画なら観ることが出来るという状態となる。これは危険なのだ。映画やドラマは前頭葉で鑑賞していたりする。ようするに直感的に内容を受け入れているということなのだ。これはテレビゲームも同じなのだ。同じゲームでも囲碁や将棋やチェスとは大きく違うのが、この点にある。
 直感的に内容を受け入れる習慣が出来ると集中力は失うが、日常の雑談は上手になった気がしてくる。これは反応が早いからなのだ。しかし、それは、考慮して内容を受け入れたり、熟慮して何かを表現するという作業を捨てて行くということにもなるのだ。
 そういえばテレビの番組になると、あの将棋でさえ一分で攻守を交代させたりしている。映像とはそうしたものなのだ。それはそれで新しいゲームとして、エンターテインメントとして、面白いのかもしれない。しかし、数日の熟慮も許されたりする、それも、また、将棋であり、そこも面白いところなのだ。
 さて、筆者は書けなくなると、こんなことをしている。
 まず、喫茶店に入る。喫茶店は、ほどよい退屈を与えてくれるからだ。ここでスマホなど見たのでは、もったいない。インターネットに接続などはコーヒー代の無駄遣いだ。何もせずに、一つのことを考える。筆者は、主にリンゴについて考える。別にリンゴの料理方法とか生産方法について考えるわけではない。リンゴのあるストーリーについて考えるのだ。たとえば、殺人現場のテーブルの調度中央に置かれた真っ赤なリンゴとか、たとえば、自殺しようとした男が最後にリンゴを食べようと考えるとか、たとえば、自分の母親の葬式と分からない幼い子供がリンゴを口に入れて無邪気に笑うとか。
 どんなストーリーでもいいが、ストーリーは変えない。一つのストーリーについて、あれこれと頭の中で組み替えるのだ。これを一時間近く行う。小説を書こうとしているのではない。ストーリーはあくまで遊びでいいのだ。何故なら、ここでやっているのは集中力を取り戻すための手段でしかないからなのだ。
 意味のないことを一時間近く考えられるようになれば、集中力がかなり回復しているという証しとなる。そうなれば、再び書けるようになるのだ。書けなくなったとき、筆者は動画には逃げない。動画は逆に絶好調で書けているときにこそ観るようにしている。そうしなければ、もっとも大切な集中力を失うことになるからなのだ。
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