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2022年04月18日16:48

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書けないときにやること、その5

 文章を書くということは、写真を撮影するということではなく絵を描くことに近い、と、筆者は思っている。ただし、近年のSNSは、むしろ、絵ではなく写真に近い。もっとも、そのカメラのレンズはものすごくミクロだったりはするのだが。
 さて、たとえば、美しい花があるとしよう。それを撮影しようと思ったら、花の根本には空き缶が捨ててあり、何故かは分からないが折れた割り箸も落ちている。花を撮ろうとすれば、どうしても、それらも入ってしまう。空き缶を拾えば、しかし、それをどこかのゴミ箱まで持っていかなければならない。誰が口を付けたか分からないビールの缶。缶は、まだ、いいかもしれないが、折れた割り箸は拾うことにも、ためらいがある。仕方なく、それらも含めて撮影する。しかし、絵なら、缶と割り箸は描かなければいい。それだけなのだ。写真でも、汚いのを我慢してゴミを拾えばいいことかもしれない。ただ、これが滝の前の自動販売機ならどうだろうか。和風旅館の前の駐車場に停めてあるアイドル画の入った「痛車」だったらどうだろうか。ちょっとどかすというわけにも行かないし、アングルを変えたぐらいでは消しようもないかもしれない。そんな場合でも、絵なら、描かないという選択が出来るのである。
 あるいは、観光地のゴミ問題なら、ゴミを増やすことも絵なら出来る。写真でそれをやるのは、ちょっと犯罪に近い。和風旅館の前の車を馬車に変えることも絵なら出来る。
 さて、そこで、筆者は、書けないときには、こんなことをしている。
 まず、目の前の風景を文章で描写する。別に実際には書かない。頭の中で描写するだけだ。次に、同じ風景に孤独とタイトルを付けて描写する。次は、幸福と付けてみる。その他、オカルトとか、官能とタイトルを変えたりする。
 春先の公園にいたとしよう。もし、孤独がタイトルなら、春先に枯れた花を描写するかもしれない。幸福なら、自転車の乗り方を教える父と息子を描写するかもしれない。オカルトなら自転車の乗り方を教える父親の眼光の奥の殺意を描写するかもしれない。官能なら、公園の向かいのマンションのベランダで洗濯物を干す主婦を描写するかもしれない。
 父親の殺意は、内面だが、筆者は彼がニコニコとしていないことに不自然さを見ていたことは事実なのだ。
 全ては、同じ風景の中に筆者が見たものなのだが、どこにフォーカスするかによって、同じ風景は違った意味になるのだ。何を書くか、何は書かないか、それを考えるだけでも、スランプのときには、いいリハビリになるものなのだ。
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