「少し飲んじゃったじゃない。汚い、最悪、酷い、不味い、嫌、こんなこと、どうしてさせたの」
本当に嫌なら、口に入って来た瞬間に吐けばいいのだ。ところが、飲まされたと文句を言いながら、浴槽から出ようともしない。それどころか、文句を言った後、再び口を開いて、こちらを見上げているのだ。
「もっと酷いことしましょうか」
そう言ってお尻を向けると、奥さんは、そこに口を付けようとした。
「まさか、そこまでするわけにはいかないですよね」
そう言って筆者は再び湯につかった。
「違うの。私、そんなこと、さすがに出来ない。オシッコだって、はじめて飲んだのよ。違う。飲まされたのよ」
「もしかして、飲ませるほうも、やってみたいんじゃないですか」
「あ」
奥さんは確かに「あ」と、言った。しかし、その後の言葉はなかった。
彼女は幼い頃、公園の砂場で皆と遊びたかったのだが、それを母親に禁じられたらしい。砂にはばい菌があるからと言われたらしい。その時、彼女の母親は「誰が」と、そこまで言って言葉を詰まらせ「何したか分からない」と、言ったのだが、子供ながらに、彼女は「誰がオシッコしたか分からない」と、言おうとして、そこが外であることを気にして「オシッコ」と言えなかったのだと思ったらしい。
家の外では言葉として発することさえ汚らわしいと、教育された「オシッコ」を、今、まさに彼女は、飲んでしまったのだった。
「禁じられない性なんて、つまらないですよね。汚れのない性には興奮出来ないですよね。そこだけは分かります」
「そこだけしか分からないのでしょ」
「はい。だって、私はエロ本屋ですから」
エロ本屋に分かるのは性までなのだ。しかし、その奥さんの前にある壁は性をも逸脱してしまっているのだ。その壁の向こうのことまで考えるのはエロ本屋の領分ではないし、そもそも、そこまで考える力があるような人は、エロ本屋になどならずに、もっと別の仕事が出来るのに違いないのだ。
奥さんは、醜い旦那との痛いセックスの中で、きっと、超えることの出来ない壁を見つめ続けるのだろう。違う。超えてはいけない壁を膝を抱えて見つめて続けるのだろう。今も、どこかで、きっと。
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