あるSМクラブの取材を終えて、店を出ようとしたところで声をかけられた。本を忘れているというのだ。都内の風俗店の取材は電車を利用していたので、確かに、常に本は持って歩いていた。中には、取材時間が決まっているのに、プレイを延長していたり、あるいは、取材があるのにプレイを入れてしまう店もあった。三十分、一時間をプレイルームで待たされるなんてことは珍しくもなかった。ゆえに、本は常に持ち歩いていた。スマホでゲームなどと、そんなことが考えられもしない頃の話なのだ。
筆者は、本を忘れていることに何の疑問も抱かずに、お礼を言って受け取り、そのまま、本を片手に駅に向かった。そして、電車に乗って本を開く、栞が挟んである。そこで、はじめて不自然な何かを感じて、カバンを開くと、そこにも本が入っている。そちらは文庫だった。来る時の電車の中で読んでいた本だった。
前に取材に行った時に忘れたものなのだろうか、と、そうも思ったのだが、それなら、そう店のママが言うはずなのだ。彼女は、ここに本を忘れていると、そんな雰囲気で本を差し出したのだ。たった、今、それを見つけたと言わんばかりだったのだ。
本のタイトルを見ると広瀬正の『鏡の国のアリス』という本だった。文庫ではない単行本だった。それは筆者が中学生の頃に読んでいた本だった。そして、なくしていたのだ。どうしてそんなものが、と、そう思った。栞があるページより前のページには確かに記憶があった。微かだが記憶が残っていたのだ。しかし、栞から先のストーリーには記憶がなく、エンディングも覚えていなかった。本は、やはり、読みかけでなくしていたのだろう。
奥付を確認すると、筆者が中学生だった頃に発売された物で間違いがなかった。しかし、古書店もある。筆者以外の誰かが忘れた物をママが勘違いしたということも考えられる。
ただ、それを返そうとか、真相について追及しようとは思わなかった。それをしてはいえないような気がしたからだ。
その本はしばらく筆者の家にあったのだが、今はない。再びなくなったのだ。不思議な本なのだ。Amazonで確かめたのだが、今でも購入は出来るらしいが、買おうとまでは思わない。そして、エンディングについては、やっぱり忘れている。もしかしたら、あのSМクラブでその本を渡されたという事実そのものが夢だったのかもしれない。そんなことは、よくあることだ。たいしたことではない。しかし、少しばかり不思議な出来事ではあった。
ログインしてコメントを確認・投稿する