mixiユーザー(id:2938771)

2020年05月10日17:46

39 view

どこで何を、その9の2

 二メートル近い壁を昇るのは無理である。しかし、私たちは知っているのだ。少し先まで歩くと道が坂になり、壁の高さが低くなるのだ。もっとも、低いところでも一メートルぐらいはあるのだから、そこに飛び乗り、さらに、その壁の上を歩くのには、ちょっとだけ、勇気が必要となる。ほんのちょっとだけ。
「変わらないねえ」
「ママこそ」
 ママが六本木の店を閉めたのが、もう、三十年前になる。変わらないはずがない。お互いに夜中の突堤の壁など歩いていいような年齢ではなくなっているのだ。
「ときどき、来ていたんですか」
「そうね。奥田君に教わってから、三年に一度ぐらいかな。来てた。暗い世の中になったり、自分が暗くなったりした時には、特にね」
 同じなのだ。筆者は、このママのSМが好きだった。もっとも、マニアではないわけなのでプレイはしない。筆者が好きだったのは、このママの作る世界観が好きだったのだ。SМクラブだというのに受け付けには、いつも花があった。もちろん生花だ。そして、プレイルームには果物があった。花と果物がエロなのだと彼女は言っていた。そんな彼女のSМが好きだったのだ。
「私ね。ソープ嬢だったのよ。あの頃はトルコか。そんなこと知ってるか。ソープで儲けてスナックがやりたかったのよ。でも、私が思う店は出来なかったのよ。ソープの稼ぎじゃ無理だったの。だからって、どこにでもある同じような店にはしたくなかったからねえ。それで、いっそ、ホテトルでも経営して荒稼ぎして一か八かの賭けに出ようと思ってね。そんなとき、奥田君と会ったのよ。ソープ嬢仲間の紹介でね。それで、ギリギリ合法のSМにしたのよ。私には、最後まで、そのプレイの良さは分からなかったけどね。でもね。楽しかったなあ。SМ。ソープは気取ってはいけなかったのよ。店は意味不明の和風だったしね。ところがSМは洋風にしてよかったでしょ。ソープには日本酒。SМにはワインだったのよ」
 彼女は水筒から何かを注いだ。紅茶なのだろう。筆者はコーヒー、彼女は紅茶、昔からそうだったのだ。
「私がSМクラブ経営を薦めたんでしたかねえ。忘れてました」
「無責任ねえ。聖水出来ないとSМクラブのママは無理だって言われて、ソープ嬢仲間の女の子たちの前でさせられたのよ。あれで度胸が決まったんだから」
 そんな店は数多くあった。正直、そこまでの記憶はない。ただ、思い出したことがある。三年ぐらいは調子のいいママの店は、その頃出て来る若いSМ嬢のいる店や安い料金のSМクラブに押されて経営が苦しくなってしまったのだった。それでも、店を閉めるほどではなかった、と、当時の筆者は思っていたのだった。
「あのね。玄関に飾る花を節約するようになったら終わりなのよ。でもね。儲からなくなると、花から節約したくなるのよ。そして、花なんか節約したって、お客には分からない。それが分からないようなお客しかいなくなったら店なんてやる必要ないのよ。女王様がね。店でコンビニ弁当を食べるようになったの。カップヌードルを食べるようになったの。そりゃ私も食べるわよ。自分の家ならね。でも、SМクラブでは食べない。苺を一つ口に含んで空腹は我慢するのよ。ほら、私、マニアじゃなかったでしょ。だから、そうしたことが逆に気になっていたんだと思う」
 音楽と文学と美学が彼女のSМだったのだ。緊縛も鞭も蝋燭も彼女には分からなかったのだ。しかし、どちらが本当にマニアだったのだろうか。緊縛さえできれば場所も、食べ物も、服装も、何も拘らない人と、緊縛などしなくても、場所と食べ物と服にはとことんまで拘る人。
「ママ、紅茶、いただけます」
「こんな時期なのに、間接キッスしようって言うの」
「運命共同体ってやつですよ。私にとっては日本人の全てがね」
「いい格好しいね」
「それも出来ないようなら人生を閉めます」
 あっ、と、私は夜の海に映る夜景を遠くに見て、まるでそれが生け花のようだと思った。それをママに告げようとしたが、そこにママの姿はなかった。
 あの時、花も飾れないようなSМ業界を抜けて、別なことをしようと誘ってくれたら、筆者はママについて行ったのだろうか。それは分からない。それは分からないが、今、ママが別のことをするよ、と、言うなら、きっと、その誘いに乗ったことだろう。
 どこで何をしているか分からない。いや、それが分かったところで、きっと、ママは筆者を運命共同体などと認めてはくれないのだろう。店はママが勝手に閉め、筆者には何も告げずに業界を去ったのに、何だか筆者がママを裏切ったような、その気分になった。海に映る夜景が生け花に見えたのは、そうだ、いつもより光りの数が少なかったからなのだ。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年05月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31