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2019年03月21日01:00

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酒と駅と編集者、その9

 西荻久保は決して便利な駅ではなかった。荻久保は大きく、喫茶店にも飲み屋にも不自由することがなかった。ところが、一つ離れた西荻久保は、けっこうローカルだった。しかし、少ない喫茶店も飲み屋も、どこかお洒落で面白かった。
 その西荻久保が好きだった女編集者がいた。筆者がまだ二十代前半だった頃に、彼女は五十代に入っていたと思う。彼女は自宅が西荻久保で事務所も西荻久保に持っていた。事務所と言っても、編集作業が出来るほど大きくはなかった。小さな部屋に机が五つ、パソコンが三台、コピーが置かれると、もう、床の見える部分が、ほとんどないほど狭かった。社員は彼女の他に男性が二人のみ。二人ともに無口で、編集者というよりは、パソコン作業専門要員という感じだった。まだ、編集作業の多くをパソコンでやるという時代ではないので、その広さではデザインさえ出来なかった。A2とかで来る版下を拡げられるテーブルさえなかったのだ。
 ゆえに、打ち合わせを事務所でやるスペースもない。事務所に行くと、そのまま昼間なら喫茶店、夕方なら飲み屋に出ることになった。
「ちょっと歩くけど」
 と、そう言って三十分以上も歩くことは普通だった。喫茶店に行くのに、いくつもの喫茶店の横を通り過ぎて行くのだ。飲み屋やレストランなら、まだ、分からないこともない。しかし、彼女は喫茶店での打ち合わせにも、その時の気分によって拘っていたのだ。
「ここ、いいでしょ。古書をこれだけ並べている喫茶店って、ちょっと珍しいでしょ。しかも、六十年代の芸術関連書籍なのよ」
 書籍だけではない。古いレコードをかける店。スピーカーがいい店。コーヒーに拘っている店。ポスターだがマグリットやデルヴォーの絵が壁にある店。あるいは、店主の趣味のディオラマが飾ってある店。ホラー映画のポスターが貼ってある店。そんな店が西荻久保にはたくさんあったのだ。
「どこでもいい、何でもいい、そんな人が嫌いなの。ラーメン屋でフレンチ食べても美味しくない。薄汚れたライブハウスでクラシックなんか聴きたくない。高級レストランでロックなんて嫌。知性のない部屋でSМなんてしたくもない。分かる」
 分からなかった。筆者は、彼女に影響されて、雰囲気というものを大事にするようになったのだ。ゆえに、その頃は彼女の言うことが少ししか理解出来なかったのだ。彼女は安い嗜好の人と一緒にいれば自分も安くなる、と、そう言って筆者を咎めていた。だから自分は西荻久保に暮らすのだと言うのだった。暮らしている場所で人は変わると言った。会社のある場所で会社の色も変わると言った。それをその通りだと思うのに、筆者はそれから二十年かかってしまった。
 マニア雑誌も、ただのエロではなく、知性的で美しいものが出来るはずなのだと彼女は主張したのだが、ビニ本からアダルトビデオの全盛に入って行く時代の中に彼女の主張は埋没して行った。筆者も、儲かるエロの仕事に手を出すようになって行くために、彼女と仕事をすることは少なくなって行った。
 あれから数十年。今こそ、彼女の思うSМを現実にしたくなった。お洒落でなければSМじゃない、知性がなければSМじゃない、ストーリーのないエロは下品なだけ、そんな彼女の主張を受け入れてSМ雑誌を作ってみたい。
 しかし、彼女は、あの時、五十歳だったとしても、もう、八十歳を超えているかもしれないのだ。もう、それを作ったところで、彼女には見せることが出来ないのだろう。そもそも、連絡先も知らないのだから。でも、もしかしたら……。
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