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2018年07月19日01:10

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遊びが下手な大人たち、その11

 どんなに楽しいことも、つまらなくしてしまう。そして、嫌なこと辛いことにしてしまう。学校というものは、悲惨を作る巧を教える機関なのかもしれない。思えば、筆者は学校で食べることも嫌いになった。お弁当の時間など最悪だった。どうして、貧乏人の子供とお金持ちの子供が同じ時間同じ空間でお弁当を広げなければならないのか理解に苦しんだ。いつも綺麗で可愛い布巾にくるまれた色鮮やかなお弁当の隣で、新聞紙で包んだだけの、ただ一個の大きく黒い飾り気のないおにぎりを食べるのが苦痛だった。
 休み時間にやっていたときには楽しかったサッカーも体育の時間に、ポジションまで先生が決め、背が低いヤツはバックだと強制されたり、足が遅いヤツはサッカーが下手と言われたりするうちに嫌いになった。
 詩や小説では、道徳的意味を持たせないものは、それを表現したものより評価が低いものとされた。詩も小説も読みたくなくなった。
 あらゆる楽しいことを、つまらなく、差別的で、辛い行為に変えてしまう。そんな場所なので、そこの優等生たちは、常に差別的で、人の上下を作ることが大好きで、その上、自分は道徳的な正義の人だと信じて疑わないような人になる。たまに優等生でありながら、その矛盾に気づいてしまう人がいると、たいていは壊れるかあるいは、宗教的に偏るかしてしまう。
 では、劣等生はいいのかと言えば、せっかく、矛盾だらけの学校の劣等生になれたというのに、大人になると、その輝かしい勲章を捨てて、優等生の真似をしてしまうのだ。劣等生が劣等生の中に序列を作ったりする。しかし、もともとが劣等生なものだから、優位を示すものには根拠がなかったりする。
 スポーツで優劣を競えば、自分が優れているのか劣っているのかは明白になる。ゆえに、そうしたものは絶対にやらない。観念的なものに優劣があるかのように語り、それで自分を優位に立たせようとするのだ。
 たとえば小説でも、観念的なところで評価するなら、その優劣は不明になる。良いとか悪いとか、美しいとか醜いには、個人の主観が大きく関わるからだ。しかし、稚拙かどうか。たとえば伏線がありそれが回収されたか否かなら、これには主観はない。誰が調べても結果は同じになる。伏線のないものはない。あるものはある。あったのにきちんと回収しなかったものは、回収されていないと、これは誰が調べても同じ結果になるのだ。
 そういえば、学校では、作文の提出がしばしば行われた。
 しかし、作文の採点基準が明らかにされたことがない。少なくとも筆者は知らない。体操競技やシンクロ、フィギュアスケートでさえ、採点の基準は示されている。採点なのだから当然だ。
 そこを選手には教えることのないまま、さあ、採点を競えというのには無理があるだろう。
 しかし、その無理を作文はやっていたのだ。起承転結のバランス、伏線とその回収、心理描写や比喩的表現の使用、そうした採点基準を子供たちに示せば、少なくとも子供たちは、どう書くべきなのか、あるいは、どうして、自分の作文が評価されなかったのかについて納得し、高得点作文を狙えたのではないだろうか。そして、それはゲームとして面白いものになったかもしれないのだ。
 戦争に反対すること、ボランティアに参加すること、親孝行は、少なくとも作文の採点基準にはならないはずだ。それらは人間の採点基準なので、そうした採点をしたいなら、それはそれで、ある政治思想に基くところの良い人間作文とか、ある宗教における素晴らしい人間作文という課題にすべきなのだ。
 そうなると、拾った百円をどうするか、と、そんなテーマの作文も、宗教が決められたり、政治思想が決められた場合で内容は違ってくる。どこにあるか知らないがウルトラマンの星とギャオスの星では違った内容で作文しなければならない。それはそれで面白そうだが、そんなことは、きっと学校ではやってくれないのだろう。
 学校ではやらないので、遊びでやろうとしても、大人たちは学校が懐かしいのか、そうした遊びには賛同してくれない。つまらないことだ。
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