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2018年07月18日17:06

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遊びが下手な大人たち、その10

 深夜のファミレスで何に襲われたら怖いかについて考えることがある。何も書けないスランプのときには、特に、そうしたことを考えるのだ。怖いのは刃物、ホークも怖い。しかし、刃物は少ない。ファミレスなので、寿司店ほどの切れ味とも考え難い。テーブルは大きさから脅威だが、何しろ図体の大きい分、動きが鈍そうに思う。そこで怖いのは椅子なのだ。深夜の人の少ないファミレスで、きちんと整頓している椅子は、鍛えられた軍隊のように見える。こちらを襲って来るときも、椅子は、正面に本部隊を置き、別部隊が逃げ道を塞ぐような気がする。その上、幼児用の椅子は空中を飛んで襲って来そうな気がするのだ。椅子は怖い。統率された軍隊のようで怖い。
 と、そんな想像をするのも、一つの遊びなのだ。
 ところが、最近の大人は、何しろ想像をしない。決められたようにしか遊べないのだ。決められたようにしか遊ばない。これも学校でやっていたことだ。ルールのない遊びにルールを用い、遊び方を決めてしまうのだ。ルールを決めてしまえば、雪合戦も鬼ごっこも競技になってしまう。雪合戦をしながら関ケ原を連想することも鬼ごっこをしながらスパイ映画を連想することも出来なくなってしまうのだ。
 授業の体育は仕方ない。それは授業なのだから。しかし、そうでない遊びにまで、どうして学校はルールを押し付けようとしたのだろうか。規律正しい軍隊でも作りたかったのだろうか。
 そのせいで、と、そう言いはしないが、今の大人たちは想像力が乏しいのだ。
 どんな料理もレシピ通りに作るべきなのだ。しかし、どんな料理も食べる人を想像しなくては作れないはずなのだ。
 SМは想像力で遊ぶものだ。決められた道具を使って、決められた通りのルールで行うことでは得られるはずの快楽も得られない。ところが、想像力のない人たちばかりがSМには残ってしまっている気がする。
 それはSМ小説を書いているような人たちまでもがそうなのだ。同じようなストーリーで、同じような行為をしている。登場人物の反応さえもがありふれている。そこまで、ルールを守り、決められたことだけをしたいものなのだろうか。日本はそんなに優等生ばかりがいたのだろうか。
 そういえば、こうした場所にビデオ評や書評をアップしている人も、自らのきっと百万人が興味を抱いているだろう日常をアップしている人たちにも、本当に想像力がない。
 どんなに下らない想像でもいい。バカと詰られてもいい。それでも、新しいものを考える人がもう少しいてくれないものだろうか、と、そう思う。
 ビデオ評や書評なら、どうだろうか。後、五分追加、あと五行追加という企画は。完成されている映画のラストに五分追加するのだ。小説の終わりに五行足してみるのだ。そこを想像するだけで、その人にしか書けない唯一のものになるではないか。
 せっかく日常を書くなら、どうだろうか、来年の今日とか、十年後の今日の日記を書いてみるとか。
 そうだ。信長、ガンダムを観る、というのはどうだろうか。ベートーベン歌謡曲を論じる、とか。カレーを料理と認めないビーフシチューのグルメ日記、とか。想像力でやれることはいくらでもあるはずなのだ。
 どうして、決められたルールの中でしか、遊べないのだろうか。そんなに学校が楽しかったのだろうか。

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