筆者は学校が嫌いな子供たちに、学校の何がもっとも嫌だったかを尋ねるのが好きなのだ。これは、もう、一つの趣味なのだ。学校が嫌いな理由はいろいろある。面白い理由もあるのだが、それは、いつか別のチャンスに書くとして、今回は、もっとも多い理由を一つ。
それは、学校は皆が同じことをするから嫌い、と、そう言うのだ。言い方はさまざまだが、子供たちは、いろいろな個性があるのに、どうして、皆で同じことをするのだろうと疑問を抱いているのである。子供ながらに、けっこう賢くないだろうか。
体力のある子供もない子供も同じ速度で歩かせようとしたり、集中力などさまざまだろうに、同じ時間だけ勉強させたり、勉強が好きな子供も嫌いな子供も同じ勉強をさせたりするのには無理あるのだ。無理があるが、これは学校という利便性を考えるなら仕方ないことなのだ。ゆえに、子供たちが学校嫌いになっても、これも仕方ないことなのだ。
ところが、そうした理由で学校が嫌いだった子供たちが大人になると、これが驚くほど他人と同じことをしようとするから不思議なのだ。筆者はサイトの書き込み、特にビデオ評とかグルメ評ばかり書いている人の書き込みに対して思うことなのだが、書いた人の違いが分からなくなるのだ。そして、こんな疑問を抱くことがあるのだ。同じビデオ評だったら、それを書いた人は、他の十人のビデオ評の中から、どれが自分の書いたものだか当てられないのではないだろうか、と。
まさかと思うが、そう思ってしまうほど、違いがないのだ。皆が同じような内容で書いている。まるで、成績の良いクラスの読書感想文のようなのだ。
もし、ビデオ評を遊ぶなら、たとえば、常に、気になった一つの台詞というテーマで書いてもいいかもしれない。あるいは、ここが転機だ、と、そんなテーマで各ストーリーの転機となったシーンについて書いてもいいかもしれない。あるいは、ここにもあった差別の本質と、そんなテーマもいいかもしれない。コーヒーが美味しそうな映画百選というのもいいかもしれない。
もっとも、つまらないのが、私はこう思ったとか、この女優がいい、この男優がいいという話なのだ。あなたの好みについて私は興味がないのですが、と、そう言いたくなってしまう。まあ、そうしたことを書くような人は、きっと、モテモテで人気者の人生だったのだろうから、そうした人には興味津々だという言う人も少なくないのかもしれないが、筆者には、つまらない学校のお勉強にしか思えないのだ。
それにしても、どうして、子供たちは、あんなにも学校が嫌いなのに、大人になると、学校でやらされた嫌なことばかりやりたがるのだろうか。そこが分からないのだ。
お勉強するより、ずっと遊んでいたい、と、子供たちの多くはそう思って過ごしていたはずなのに。
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