mixiユーザー(id:2938771)

2018年07月12日00:52

175 view

遊びが下手な大人たち、その5

 スポーツというものは、やるから楽しいのではないだろうか。野球でも、サッカーでも、格闘技でも、陸上競技でも、体操やフィギュアスケートでさえ、やってみるから楽しいのではないだろうか。それは競技としてしか楽しくないということではない。たとえば、プロ野球の試合に熱狂させられる。その次の日、キャッチボールでもいいからやってみたくなる。プロのように投げられるわけでも捕れるわけでもない。それでも、実際にボールに触れることで昨夜の熱狂を思い出すことが出来るのである。
 ところが、近年は、このキャッチボールさえ出来る場所は少なくなった。野球で言うならバッティングセンターさえもが少なくなっている。いっさいの体験を禁じられて、ただ、大人しく観戦だけしていなさい、と、それは無理なのではないだろうか。観戦だけしていたのでは、プロの凄さも分からないし、プロの努力も分からないのだ。キャッチボールも満足に出来ない自分を知るから、プロの凄さを観戦したくなる、そうしたものなのではないだろうか。
 それは全ての競技において同じだと思う。誰もが気楽に体験出来るスポーツのほうが、そうでないスポーツより流行になりやすいのは、そうした理由なのではないだろうか。
 確かに、体操競技では、素人が勝手にやるのは危険かもしれないが、それでも、工夫して近い遊びを作ることは出来るのではないだろうか。
 観客にはいっさいの体験を許すこともしないままに、ただ、行儀よく観戦していなさい、と、そう強制していること、これも、また、学校の授業のように感じないだろうか。もちろん、それを楽しめる人もいるかもしれないが、多くの大人たちは、そうした授業が嫌で嫌で仕方なかったのではないだろうか。
 そういえば、カラオケはすっかり流行がなくなってしまったが、どうしてだろうか。
 筆者は、こんなことを考えることがある。
 皆が熱狂していたカラオケの機械に、採点システムが入った。それにより、カラオケは歌う人が酔いしれるものではなく、正しく、きちんと、ふざけずに歌うものになってしまったのではないだろうか。採点システムが導入されてからは、採点などしなくても、歌が上手いとか下手とか、そうしたことばかりが気になりはじめた。下手なりに楽しむことを絶対に許容しなくなったのだ。これは優等生のいじめシステムなのだ。
 似ていないだろうか。学校の音楽の授業に。音楽は、学校にあるかぎり、音を楽しむものではなく、音を学ぶものになっている。いっそ、音学と改名すべきだ。
 下手なりの体験があるからこそ、プロの凄さを知ることになり、そして、プロが凄いので、スポーツもコンサートも面白くなるのではないだろうか。
 児童公園でキャッチボールなどのボール遊びをするのは危険だと言うなら、スポーツ競技団体は、もう少し、皆に気楽にそれを体験出来る場所を用意すべきなのではないだろうか。
 子供に歌舞伎体操なるものをやらせた役者がいた。お見事である。身体で歌舞伎を体験した子供の中には、歌舞伎を好きになる子供もきっと出ることだろう。ただ、元気で楽しい体操でいい。歌舞伎になどなってなくていい。いや、歌舞伎などやらせてはダメなのだ。本格的な稽古などさせてしまっては、遊びではなく、お勉強になってしまうからなのだ。そのことをその役者はよく分かっているようなのだ。全ての元気な子供に拍手する。
 それが遊びというものなのだ。どうでもいい体験。それが遊びなのに、その遊びの全てを行儀の良い学校のお勉強にしてしまうのはどうしてなのだろうか。
 苦手なことはやるな、恥はかくな、負ける試合はしないことだ、と、そんなつまらない人間には遊びは分からない。そんなにお勉強が好きなら、そうした人は、生涯、お勉強をしていればいい。そうすれば、いつかクイズ王にはなれるかもしれないのだから。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年07月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031