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2018年07月10日15:35

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遊びが下手な大人たち、その3

 食べることを遊びにすることは出来る。しかし、最近の人はこれを遊びにするのが下手になっている。下手なのは、サイトなどのグルメ記事を読めばすぐに分かる。何をやっているのか。
 まず、美味しい物を見つけると、その店に行く、そこで、その店の場所を書く、その店の料理を美味しいと評価する、そして、その料金を書く、これらは情報なのだ。その情報の公開は本来なら、お店が営業努力として、自らやるべきことなのだ。それを素人にやらせるのは、お店の怠慢なのだ。そして、素人に宣伝活動を肩代わりさせた上で、悪く書かれると、その評価に怒ったり、それを削除したりする。愚かなことなのだ。ところが、素人グルメ批評家のほうも、まるで、お店の奴隷のように卑屈に、これに従うので、怒らせたり、削除されないようにと、必死に褒めて書くのだ。あるいは、悪いことは書かなかったりする。それはプロのふりなのだ。
 筆者はプロがお店に不利な情報を無視して宣伝活動するのは、これは仕方ないと考えている。プロはお店からお金をもらっているのだから、お金をもらっておいて悪く書くのは、これはむしろプロとして失格なのだ。しかし、お金ももらっていない素人がどうして卑屈なまでに、このプロの行為を真似ているのかが筆者には分からないのだ。
 また、こんなことを遊びだと思っている人たちもいる。
 美味しいと言われるお店にとにかく行きまくるのだ。ラーメンは制覇しているとか、カレーは制覇しているということを目指しているのだと思う。そうした人も、きちんと情報を整理している。
 これらの行為は何かに似ていないだろうか。
 そうなのだ。これは学校の授業のやり方に似ているのだ。情報を収集し、整理すること、それはお勉強なのだ。お勉強が楽しくて仕方なかったという人たちもいるのだろう。それはそれでいいと思う。しかし、お勉強は遊びではないのだ。
 では、どこからが遊びになるのか。お勉強を遊んでしまっている人たちがいる。それが学者と言われる人たちなのだ。その人たちは、もはやお勉強ではなく遊んでいるのである。
 もし、グルメ情報をサイトに上げようとしたときに、自分なりのテーマを作る人がいれば、その人は遊びを知っている人なのだ。ただ、写真を撮る、映像に撮る、情報を並べるのではなく、別のテーマをそこに持って来る人たちがいる。
 たとえば、自転車とグルメ、犬と一緒のグルメ、一千キロカロリー以下グルメ、失恋したときのグルメ、と、テーマなど、いくらでもあるものなのだ。そうしたことをせず、ただ、食べた、美味しい、どこにある、と、それだけの人たちがやっていることは、あの苦痛だった学校のお勉強の延長でしかない。それは遊びとはもっとも遠いところにあるものなのだ。
 まあ、それでも。
 美味しいと聞いて、その店に行ってみたいとも思わない人よりは、それでも、いくらかましなのかもしれない。
 中にはお勉強が出来る自慢がしたいのか、こいつ、行ってないな、食べてないな、と、そう思わされることさえある。そうしたグルメ情報を多く見るようになった。これも忙しい時のプロの仕事のやり方なのだが、そこまでしてお店に協力してやる意味がどこにあるのかが筆者には分からない。
 その点では、映像を主体としている人たちは、自分もそこに映り込まなければならないために、少なくとも実際に行っているだけ、まだ、ましかもしれない。
 たかが食べるというだけの行為。それだって、遊びに出来る。遊びに出来るからこそ人間なのだ、と、筆者はそう思うのだが。まあ、それでも、お勉強が大好きな人は、情報だけをお店の協力者として、無料奉仕し続ければそれでいいのだろうが。
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