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2017年06月30日14:53

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これでもエッセイ(その2)

 エッセイと書こうと考えて深夜のファミレスに入るときは、小説を書こうと考えて入るときよりも、少しばかり気楽である。小説を書こうとなどと考えていると、たいてい、空腹な状態にあるような気分となり、食べるのが面倒な料理のことばかりを頭に浮かべてしまう。食べるのに厄介な料理を頼めば、それを食べている間は書かなくてもいいかもしれない、と、そう思うからだ。それがスランプの時なら、なおさらなのだ。ところが、エッセイを書こうと思う時は、ドリンクバーで十分かな、と、そう思う。エッセイはダイエットにも向いている。エッセイで十キロ減量という本を書いたらどうかと思うぐらい気楽なのだ。
 そもそも、エッセイというのは、筆者の日常から見つけた社会を書けば、それでエッセイなのだ。
 日常。日常でいいのだ。筆者の日常が特殊なはずがない。筆者と常に一緒にいるところの体長三十センチのゴジラが流暢に会話するようなことはない。コモドオオトカゲが火を吹くこともない。どこにでもある平凡な暮らしなのだ。
 そんな中に気付きがある。小さな幸福というものだ。これを書かないとエッセイにならない。大きな幸福はダメなのだ。それではサクセスストーリーになってしまうからだ。大きな悲劇もダメだ。突飛な話もダメだ。ファミレスに入る手前の公園でゾンビがバーベキューをしていたが、深夜にバーベキューをするというような、そんな突飛な話はエッセイには書けない。もう、それは社会問題として、それが良いか悪いかの問題提起になってしまうからだ。
 そんな難しいことは書かずに、とにかく、そこにある日常に小さな何かを発見すればいいのだ。
 発見しよう。
 発見して書こう。小さなことなら発見は楽なはずだ。何もないはずがない。何もなければ、二階のファミレスに入るための階段の段数について発見すればいいのだ。それが十二段でホッとしたとか、誰も見ていないので勇気を出して一段飛ばしに昇って自分の若さを確認したとか、そんなことを書けばいいのだ。
 だからエッセイは気楽なのだ。それでも書くことが思いつかないときには、甘い物でも食べればいいのだ。だからエッセイはいいのだ。なので、はじめよう、これでもエッセイという企画を。
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