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2017年03月31日01:36

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アブ街あの頃(その9)

 池袋のSМ風俗を語るなら、三つに分けなければならない。東口の南と北、そして、北口。西口にも何軒か出来たのだが、あまり長続きはしていなかったように筆者は記憶している。
 池袋のSМ風俗の基本は北口である。ラブホテル街を近くに抱えているから、まだ、プレイルームが許されていた当時でも、ここは派遣型が主流となっていた。伝説の女王様。伝説のМ女を何人も出し、SМクラブとしても伝説になったものがいくつもある。多くは、駅北口の周辺あったのだが、その奥、ラブホテル街にさしかかる辺りにも、伝説として残るようなSМクラブがいくつかあった。
 ただ、やはり、激戦区なだけに、その多くは、可愛い、美人、過激で名前が通って行った。
 これに対抗する勢力が東口のサンシャン通りそばに出来た。実は、ここにもラブホテルが多く存在しているのだ。そして、こちらも、北口に対抗していただけに、可愛いとか若いとか、サービスがいいとして有名になって行く。こちらにも、その後に伝説として語り継がれて行くSМクラブが多く出現する。
 しかも、北口の王道に対抗するには、可愛い、過激だけでは弱かったのだろう、こちらは、さまざまな性癖に細かくフィットさせるSМが出て来る。野外露出をプレイに入れたとか、顔面騎乗をうりにしたとか、あるいはラバーなどコスチュームに拘り出したのも、筆者の記憶では池袋東口だったように思う。さらに、同じ東口ながら、南側にも数軒のクラブが出来るのだが、面白いことに、ここに作られるSМクラブはさらにマニアックで、特に風俗嬢そのものがマニアだったりしていた。
 さて、幾多の伝説を作る池袋のSМクラブ。しかし、ここの特徴はあくまでも男性型なのだ。ようするに男たちが考え、男たちに楽しい風俗が作られていたのだ。その逆に、女性型のSМクラブが多く存在していた場所が横浜ではなかったかと筆者は考えている。京浜東北線の上野を出て横浜まではSМクラブの鬼門と筆者は呼んでいた。この間のSМクラブはあまりいい結果にならなかったように記憶している。ところが、上野と横浜は違う。どちらも京浜東北線のSМ鬼門の終わりなのだ。上野にも特徴があるのだが、次回はとりあえず横浜について書くことにしよう。
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