「未来を花束にして」。
このタイトルと予告編で「ソフトな社会派歴史劇」と思い込んだ方も多いでしょう。
ところがどっこい。
セクハラ、パワハラ、人権蹂躙が横行する男性中心社会に投石と爆弾で戦いを挑んだ女性達の、ど根性武闘派ストーリーなのでありました。
それにしても・・・、今じゃこの日本でも当たり前に存在する女性の投票権ですが、なぜ昔の社会はそれを認めようとせず、忌み嫌い続けたのでしょうね。
「女なんかに政治なんかわかるわけねーよ。大人しく家事と子育てでもやってな」という思い上がりと偏見があったであろうことはわかります。でも、公権力や圧力、さらには暴力に訴えてでも否定せねばならないほど女性参政権は脅威だったのか、と思わざるを得ないのです。
過激な女性参政権運動者(SUFFRAGETTE。本作の原題)が行った爆弾テロは、確かに間違ったやり方だったかも知れません。人を傷つけないことをモットーにしてはいても、破壊活動がエスカレートしていったら、いつかは被害者が出たことでしょう。
それでもテロ行為は続いた。なぜか。
政府と警察の暴力と弾圧があまりにも激烈だったからです。
「暴力は何も生まない。連鎖を断ち切れ」。そう言うのなら、暴力を捨てるべきなのは公権力側、強者の側ではないでしょうか。
観ていて、警察側のやってることは現代とまったく同じだな、と思いました。
手持ちカメラによる隠し撮りと、その写真による本人確認(監視カメラと顔認証システムそのままですね)。
活動家をスパイに仕立て上げ、情報を流させる(60年安保の時もこういうことがあったそうです)。
微罪で逮捕して、その後、長期拘留(例を挙げたら、きりがない)。
今、沖縄の辺野古周辺で起こっていることを見れば一目瞭然でしょう。この作品が描いているのは、まさに目の前にある「現在」の状況なのです。
驚いたのは、刑務所内でハンストをしている女性に対する「強制食餌」。
数人で押さえつけて鼻の穴に管をむりやり突っ込み、ミルクだかお粥だかを流し込むというこのやり方は、どう見ても拷問でした。警棒で殴ったり、蹴りを入れたりするよりも残忍で、非人間的な行為だと思います。
ただ「参政権がほしい。自分たちにも発言させてほしい」と願っただけの人々になぜあんな蛮行を振るわなければならなかったのでしょうか。
何がそんなに「怖かった」のでしょうか。
私たちの本当の敵は、根拠のない、漠然とした恐怖。そしてそれを増幅させる無知、偏見、非寛容。
それを克服する手だては、あるでしょうか。本作の問いかけに、終わりはありません。
映画のラストクレジットで、女性参政権を持つ国名と、それが成立した年が紹介されます。
それを見ていて気づいたのですが・・・、なんと「1945 JAPAN」の文字がない!
単にあちらの作り手が知らなかったのか。それとも、今の世界における日本の認知度や立ち位置が、こういう場で無視されるほど小さくなっているのか。
後者でないことを、祈るばかりです。
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