楽しみが多様化し、どんなものにも楽しみを見出せるのが男で、それが出来ないのが女だった。サロンをはじめた頃、何か新しい試みをはじめると、それに熱中するのは男で、女は、その男について行くようなところがあった。写真も文章も映像も男の趣味だった。
緊縛というものも、その背景にはカメラに対する執拗な拘りがあり、その果てに緊縛があるようなところがあった。文章を書くのにモバイルに拘る男たちも少なくなかった。そういえば、その昔も、万年筆が好きなのは、たいてい男だったように思う。
ところが、いつの頃からだったろうか、サロンはお客さんが増えた。サロンを飲み屋と勘違いしている人は、最初の頃は本当に少なく、そうした人はすぐに来なくなったものだ。何かをはじめたい、何かを仕掛けたい、何かを作りたい、その起点としてサロンがある、と、そう考える人がサロンには多くいたのだ。そして、そのほとんどは男だった。
何かをしたいからサロンに集う、集っている内にサロンが目的になってしまう。緊縛を撮るためにカメラに凝る、気がつくとカメラに凝っている、パソコンも車も似たようなところがあった。
ところが、いつの頃からだったか、その男たちは、新しいものに挑む気力を失い、平凡な日常と温かい恋愛に浸りたいと望んでいるかのように思えるようになってしまったのだ。不思議だが、あの当時に、そんな男たちと競って新しいことに挑もうとしていた女たちでさえ、その気力は衰え、ぬるま湯を求めるようになってしまったように思う。
老いというものがあるのだから、それは仕方ないことなのかもしれない。偉そうなことを言っていたって、老いてしまえば気力が萎える、その程度の熱情だったということなのだ。問題は、そうした人たちではないのだ。
新しく熱病に浮かれる人たちが、女ばかりになっているということなのだ。お膳立てをしてくれれば、それに従うという男たち。どうしたのだろうか。積極的な女と消極的な男。同志を求める女とお客さんになりたがる男。どうしたのだろうか。何が男と女を逆転させてしまったのだろうか。
ログインしてコメントを確認・投稿する