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2017年02月02日14:40

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自殺は罪なのか - いまだに得られない答え

人それぞれ、宗教的、文化的価値観が違い、道徳観念も違う。

私は今迄12回、事故や病気で死に掛けた経験があり、殺されそうになった事もある。

また、幼い頃、自分の死をはっきりと認識して以来、数十年、自分の死の瞬間を考えない日は、一日たりとも無い。

私の死生観は、死ぬような経験をした事の無い人達とは、少し違うかも知れない。

その私の考えでは、生まれてすぐ死ぬ人も、100歳を超えて生きる人も、事故で死んだ人も、病気で死んだ人も、それが、天が与えた寿命であり、否応無く、逆らえない瞬間だと言う事。

しかし、いくら考えても分からない問題がある。

本件のような場合がそうだ。

生きる力を失った肉体を、人間の力で無理に生かすのは正しいのか。

積極的に死を求めるのは罪なのか。

普通に考えれば、自殺は罪である。

しかし、耐えられない苦しみにもがき続けるのも無慈悲である。

また、自殺が罪である場合、本件のように医者の助けを借りれば、その罪の一端を、医者に背負わせる事になる。

これは罪ではないのか。

もうひとつの疑問は、自殺は罪であるとの価値観の元に生きている人がいて、この人は早く死んでしまいたいと考えていたとしよう。

そして、この人は病気になった。

大きな治療を施せば、助かる確率は50%。

しかし、治療しなければ、助かる確率はゼロ。

そしてこの人は、これ幸いと、治療をせず、死ぬ事を選んだ。

果たしてこれは自殺であり、罪なのだろうか。

私は数十年考え続け、いまだに答えを得られない。

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世界安楽死事情 1年で80人を旅立たせた医師の告白
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=4412974

この1年、ジャーナリストの宮下洋一氏はスイス、オランダ、ベルギー、アメリカ、スペインを訪ね、その国々の安楽死事情を見てまわった。それは1年前、スイス・バーゼルで旅立ちの現場に立ち会って以来、筆者を揺さぶり続けた「死ぬ自由を認めるべきか否か」という問いへの答えを探す旅だった。連載最終回の今号では、スイスを再訪し、自殺幇助団体「ライフサークル」代表・プライシック氏に、“旅の成果”を報告する。

 * * *

 スイスで初めて安楽死の現場に立ち会ったことは、私の死生観を一変させる「悲劇」だった。老婦が旅立つ前日に語った言葉が脳裏に焼き付いている。

「もし私が満足のいく人生を送ってこなかったら、多分、もう少し長生きしようと思うかもしれないけれど。せっかく良き人生だったものが、身体の衰弱で失われる。それだけは避けたいの」

 あれから、1年が経つ。私は、この間、各国の現場を訪ねてきた。安楽死を知ることはその人の死生観を知ることであり、そこには各国の価値観が色濃く反映されていた。ただし、取材を重ねるなか、一つの疑問も生まれた。医師が法律によって免責されているからといって、その医師が安楽死の条件が揃っている患者の息の根を止める資格はあるのか。

 1年前、女医は、こう言った。「私の考えをあなたに押し付けるつもりはない。いろんな人を取材し、さまざまな考えに触れなさい」と。旅を締めくくるため、私は、2016年12月7日、スイスのプライシック女医のもとに再び足を運ぶことにした。そしてこの地で、また1人、死を求める全身麻痺のドイツ人女性に会うことが約束されていた。

 早朝7時、気温マイナス5℃で、濃霧が立ち込めるバーゼル市内の喫茶店で熱いコーヒーを飲み終え、女医が住む郊外に向かう路面電車に乗った。女医は、数日前にスキーで滑落し、車を運転できないとのこと。私は、記憶をたどって、彼女の自宅まで歩いてみた。

「ヨーイチ、久しぶりね!」

 松葉杖をついて歩く女医は、いつものように私を笑顔で歓待した。朝から多忙を極める彼女は、早速、私を仕事場まで連れて行く。聞けば、この1年で80人に自殺幇助を施したという。

「実は、あなたに話していた患者だけど、診察の間もずっと泣いていたわ。とりあえず、彼女のいるホテルに行って話だけはしてみてください」

◆ベッド上で空を飛び続けた

 同日の午後5時。バーゼル市内のホテルの一室に向かった。

「世界を旅したくて、CAになったの。でも、結婚2年後に悲劇が訪れたわ」

 サビナ・ツェリカス(53)は、日の落ちたホテルの426号室で、絶望した表情を見せて言った。車いすに座る彼女が、私を見つめる涙目は、15時間後に何が起こるのかを物語っていた。プライシック女医によると、彼女の病状は、私が2か月前に取材したサンペドロと同じ全身麻痺の患者だった(*1)。

【*1/連載第9回で紹介。スペイン北西部ガリシア地方の漁師ラモン・サンペドロは25歳のとき、地元海岸から海に飛び込み、頸椎を折り全身不随の身に。29年間のベッド生活のなかで何度も自死を望むも、スペインでは安楽死が法制化されておらず、家族の引き留めにもあう。しかし、恋人ラモナ・マネイロの協力によって1998年、安楽死を遂げる。】

「お会いできて光栄です」と言って、私は彼女の唯一動く手をしっかりと握った。サビナは、声にならない息を吐きながら、「はじめまして」と言った。

 1994年、31歳当時、ルフトハンザのCAとして、世界中を飛び回っていたサビナは、華やかな気持ちで一杯だった。1992年に結婚し、男の子も授かったばかりだった。だが、不運が彼女を襲う。睡眠中に脳梗塞が訪れる。気づいた時には、病院のベッド上。既に3週間もの時間が流れていた。

「身体が動かず、話すこともできなかった。怖くて、苦しくて、監獄にいるようだったわ……」

 彼女の人生への恨みは、その一言に凝縮されていた。1994年といえば、私が海外生活を始めた頃だ。その後、世界中を巡り歩いて多くを学び続けた22年間、彼女はベッドの上で生きてきた。

 彼女には、この時、10年前に知り合ったブルーノ・ヘルマンが同行していた。サビナは、ヘルマンを必要とすると同時に、ヘルマンはサビナに思慕の念を抱いた。闘病6年目、前夫と息子を手放す決断をした。

「治る見込みもなく、また倒れるかもしれない。まったく違う人間になってしまったのだから。母としての役割を果たすことができないので、息子は前夫に託しました」

 24歳になった息子さんに会うことはあるのですか? 彼女は「もう8年間ほど会っていない」と呟いた。将来、息子は軍隊の道に進むため、現在、ミリタリースクールに通っているという。

 息子さんには、明日のことを話している? ヘルマンが、「知っているのは、私ともう1人の友人だけ」と言った。父親は他界しているが、78歳の母親は健在だ。妹と弟にも、この話は知らされていない。

「家族全員に手紙を書いたの。その手紙は、私が死んでから渡してもらうわ」

 もし家族のサポートがあれば、あなたは別の選択をしていたんじゃないですか? サビナが、迷わずに即答する。

「ありえません。なぜなら、私自身がもう、この障害に耐えられないから」

 すぐに、ヘルマンが口を挟む。

「彼女に十分なサポートがなかった訳ではないんだ。22年ですよ。彼女は、22年間、この状態で生きてきたんだ」

 顔が上下に揺れ続けるサビナは、さらにため息まじりの声で、こう話す。

「24時間体制のケアには莫大なお金がかかったわ。でもそれは、私を生かし続けるためだけのケアでしかない」

 全身麻痺の彼女は、世界標準からすると、安楽死には値しない。なぜなら、末期症状を持たず、精神的な痛みは別としても肉体的に耐え難い痛みを伴っていないからだ。条件として揃っているのは、回復の見込みがないことと、本人の意思が確認できることか。独断で死に臨む彼女に、私は虚しさのあまり「まだ生きられる」と、吐き捨てた。

 しかし、私を悩ませる部分も実はある。英国やドイツのように安楽死を認めない国々では、サビナのような患者が死への願望を公に口にすると、精神科病院に送られる。それが何を意味するかは、ベルギーのビンケ家(*2)を見てきて知っている。そして、スペインのラモナの言葉も浮かんでくる。

【*2/連載第6回で紹介。ベルギー人のエディット・ビンケは、若くして精神病を患い、幾度も死を望むが、当時は同国に精神病患者の安楽死が認められていなかった。結局、彼女は2011年3月、精神科病棟で自殺。この事件が同国で報じられ、精神的な病も、安楽死要件に含めることとなった】

「(死なせないのは)家族のエゴだ」

 どちらが正しいのか、私の思考が支離滅裂になる。闘病当初、ベッドの中で、彼女は毎日、旅を想起したという。

「タイと南アフリカに行きたかったんです。知らない人たちにたくさん会って、話をして、経験を重ねたかったわ」

 しかし、その夢が現実にならないことを知り、10年ほど前から別の夢を抱く安楽死を叶えることだ。2016年4月、サビナはついに「ライフサークル」に辿り着く。私は最後にサビナに訊く。あなたが死んで、残されるヘルマンに何を期待しますか?

「期待することはありません。希望を抱いて生きてほしいと思います」

 その言葉を聞いたヘルマンが、涙目になる。それでも、サビナの顔をしっかりと見つめ、彼は呟く。

「君を愛している。君を失いはするが、愛は失わない」

 その瞬間、サビナは「あー」と泣き崩れる。涙で真っ赤な目を、わずかに動く右手でティッシュを取り、頭を屈めて拭った。これ以上、時間を奪ってはならない。私は部屋を後にした。

◆スイスでも闇の安楽死が横行

 サビナが死去した翌日の午後3時、私はプライシック邸を再び訪問した。

「この1年、各国を巡り、たくさんの人々と話を重ねてきました。私なりの考えがようやくまとまりつつあります」

 こう切り出し、私は彼女が行う自殺幇助(*3)が、オランダで実施される積極的安楽死よりは正当行為に近いのではないかとの考えを述べた。

【*3/プライシック氏の実施する「自殺幇助」は、毒薬を用意するが、その決断は患者に委ねるという方式をとる。毒薬入りの点滴にはストッパーが付されており、それを開くのは患者自身の手による。一方、オランダやベルギー、ルクセンブルクでは、医師が直接毒薬を注入できる「積極的安楽死」を認めている】

 しかし、欧米の安楽死・自殺幇助団体が、世界のスタンダードとして、広がりを持たせようとする合法化への運動には反対であるとも指摘した。理由は、我々は同じ宗教、歴史、文化を共有していないことで、人それぞれの認識や捉え方が「死」にかかわらず異なるからだ。

 女医は、「なぜ合法化が良くないと思うのか」と訊いた。その問いに、私は、「法が乱用される危険があるからだ」と断言すると、彼女はこう言う。

「乱用は、私も恐れている。だから積極的安楽死には反対よ。オランダやベルギーでは医師が毒薬を打ち、ビデオ撮影もない。本当に患者の意思によるものかが曖昧だわ。ただ」

 続けて、女医は、法制化されないことの危険性について説明する。

「医師の中には、違法行為に手を染めてでも、患者を死に至らすものが必ず出てくるのよ」

 事実、自殺幇助が合法のスイスでさえ、闇の世界で患者を安楽死に導く行動が、日々、行われているという。それは医師が、自殺幇助による警察の取り調べや事務的作業を嫌うためだと、彼女は明かした。これは、医師35人のワークショップで交わされた内容で、公になれば彼らは全員検挙されるのは間違いないという。私はこう返す。

「でも、法的に認められ、自らの意思に基づく自殺幇助であろうと、末期症状を持たない患者に致死薬を与える行為は、正しいとは思えません」

 まだ生きることができる状態のサビナを、女医はこの日の朝、旅立たせた。そのことに私は深い疑問を抱いていた。女医は、私の見解を正そうとした。

「あなたは、彼女の人生が尊厳のあるものだと思うの? トイレにも一人で行けず、おむつを付けて生きるのよ」

 以前は、ただ頷き、女医の死生観が正しく、美しくも聞こえたが、この時の私は違った。障害を抱える人間が、人生に不幸を感じ、死にたいと思うことがあるのも事実ではあるが、十分に生きていける障害者がいることも私は知っている。彼女に問い直す。

「あなたはサビナの人生の最期を決めたのですよ。彼女の長い人生の背景について、どこまで知っていたのですか」

 死は個人のものなのか、それとも、集団のものなのか。こうした疑問に苛まれるのは、18歳の時に日本を離れた私にも“日本人的なる意識”がどこかに潜んでいるからだろう。私は、死は個人のものとして割り切れない部分があると信じている。だが、後者の感覚を欧米人に伝えることは難しい。案の定、答えは期待はずれだった。

「私はよく、『人は自らの死を選び、他人は人の死とともに生きる』と説明します」その決め台詞こそ、私の考える死生観と異なるものだ。人間は、そこまで強い生き物ではないのだ。だが、ここで反論せず、逡巡したのは私が日本での安楽死・尊厳死取材をまだ行っていないからだった。

 昨今、日本でも安楽死法制化の機運が高まりつつある。脚本家・橋田壽賀子氏がスイス最大の自殺幇助団体ディグニタスを例示しながら、「日本も安楽死を容認すべき」と公言した(*4)。実は、この話を、スイスに来る数週間前、女医にメールで知らせていた。

【*4/橋田氏は文藝春秋12月号で、〈ボケたまま生きることだけが恐怖〉〈いま病院は、認知症の人をいつまでも預かってくれません。悪い言い方をすれば、病院から追い出してしまう。追い出すくらいなら、希望する人は死なせてあげたらいいではないですか〉〈日本でスイスのように安楽死を認める法律を早く整備すべき〉と述べた】

 その際、彼女から橋田氏の連絡先を尋ねられた。なぜ彼女は連絡先を知りたがったのか。

「彼女が91歳であれば、いくら今は健康とはいえ、突然、体調を崩すことが考えられます。関節、視聴、疲労などの問題が生じ、生活が苦しくなります。なぜスイスで死のうと思うのか、その理由を聞きたいと思いました。

 それによって、心筋梗塞などで体調が悪化した場合でも、ここを訪れる可能性は与えられるでしょう。しかし、意思表示ができなくなったら、手遅れです。もしスイスに住めば、万が一、意識を失ったとしても、私はセデーション(*5)を施すことができます……」

【*5/苦痛緩和を目的とし、薬で末期患者の意識を下げ、昏睡させること。日本では緩和的鎮静と訳される。日本では安楽死と区別され、医療行為の一つとして認められるが、スイスやオランダではこれも消極的安楽死として数える】

 ここで私が、意表を突いてみる。

「それは彼女(橋田氏)を間接的に洗脳していることに他ならないのでは?」

 橋田氏が、自らの意思でスイスへの渡航を考えていることについて、私はとやかく言わない。だが、女医は橋田氏の連絡先を求めた。それは橋田氏の死を誘導する行為に映る。

「いいえ、私はディグニタスに行ってほしくないだけです。ライフサークルであれば、死ぬ寸前まで最大限生き延びる方法を探ることができるはずです」

 彼女は6年間、ディグニタスに勤務していた。患者希望だけで無条件で死に至らすことのある同団体の方針についていけずライフサークルを設立した。

「招待する考えはない。洗脳はダメよ」

 女医との会話は1時間半を経過していた。私は、彼女に強引な物言いをしていることが気になってきた。これだけ多くを学ぶ機会を与えてくれた彼女を非難しているような気にもなる。だが、彼女は、笑顔を見せながら、淡々と思いを語る。それは彼女の仕事に対する自信の現れなのか。ところが、だ。「ヨーイチ」と、いつものように穏やかな声で私を呼ぶと、これまでにない辛そうな表情を見せ、ぼそりと言った。

「私だって、すべての幇助が正しいとは思わない。時には、罪悪感を持つことだってあるの。分かってちょうだい」

 患者のためを思った自殺幇助だが、果たして死に相応しかったかどうかとの疑問が残ることもあると彼女は言う。もっとも新しい例は、この日の朝、女医が自殺幇助し、私が患者本人を前に「まだ生きられる」と訴えた、まさにその女性についてだった。

「彼女(サビナ)の病気は、全身麻痺でしたが、本当はまだ生きることが可能でした。病に倒れてからの2年間は、地獄の生活だったことでしょう。しかし、そこから20年間は、おそらく精神的な安定期に入ったと思うのです。彼女が死んだ時、私はヘルマンが泣きわめく姿を目の当たりにしました。この段階で幇助するのは間違っていたと、私は思わざるを得なかったわ」

 後悔しても死人は帰らない。後悔の念を抱くくらいなら、私は人を安楽の世界へ導くことなどしたくない。この根本的な出発点が、そもそも私とプライシック女医の違いなのだと思った。いや、欧米人と日本人の違いなのか。スイスに始まり、スイスで終わる予定の旅だったが、どうしてもやるべきことが見つかった。私は日本行きを決意した。

【PROFILE】1976年、長野県生まれ。米ウエスト・バージニア州立大学外国語学部を卒業。スペイン・バルセロナ大学大学院で国際論とジャーナリズム修士号を取得。主な著書に『卵子探しています 世界の不妊・生殖医療現場を訪ねて』など。

※SAPIO2017年2月号
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