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2016年12月10日16:36

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十二月の書き方課題小説

 物忘れが激しいのが年齢のためなのか、それとも、もともとだったのか、それも覚えていない。ただ、物忘れが激しいことは悪いことばかりではない。
 たとえば、こんなことがある。
 最近、私は、深夜に思い出の地を巡るという遊びをしている。昔、取材で訪れた場所に、深夜に車で訪れるのだ。
 ところが、向かっている間に、何をしようとしているのかを忘れることがあるのだ。
 深夜に気の向くままにドライブするのは、何も、そうした目的のためだけではない。こうして物を書いているのも、気の向くままに訪れる深夜喫茶やファミレスでのことだ。しかし、そこに向かうときには目的地を忘れたりはしないし、道も間違えることはない。たとえ、それが半年に一度ぐらいしか行かないような場所でもだ。
 ところが、深夜に思い出の地に向かっていると、途中から自分がどこに行くつもりで走っているのかが不明になることがあるのだ。
 先日も、そんな状態のままに目黒にいた。
 目黒通りから代官山方面に向かう道に突如として閑静な住宅街があり、その一角に青い屋根のマンションがあったはずなのだ。それがあることまでは確かに覚えている。しかし、私は住所も分からないまま、そこに向かおうとしていたのだろうか。そんな無謀なことをするだろうか。何しろそのあたりにあることは分かっているものの、それ以上の手がかりがいっさいないのだから。青い屋根は覚えているが、その先の何を目指していたのか、あるいは、そのマンションに向かっていたのか、とにかく覚えていなかった。
 都心とは思えない暗い道に車が入り、ゆるやかな登り坂を行くと、通りの向こうに青い屋根のマンションが見えた。向かう場所の根拠もないままに、目的地があっさりと見つかってしまったのだ。しかし、そのマンションを見ても、どうしてそれを目指していたのかが思い出せない。昔、誰かと同棲していたマンション。いや、それにしては豪華過ぎる。だいたい目黒近辺に住んでいたことはないのだ。SМクラブ。それは考えられるが、ラブホテル街からも遠い、そんな場所で運営されていたSМクラブなどあるものだろうか。SМクラブのママが住んでいたマンション。それは考えられる。確か、この辺りに誰かいたような気がする。しかし、それも思い出せない。そこまでして思い出せない場所に行こうなどと思うものだろうか。
 何をしに来たのか、どうしても思い出せない。思い出せないままに車を走らせながら、今夜は諦めて家に帰ろうと思った。まさにその時、一軒のイタリヤ料理屋を見つけた。ここだ、ここは、あの時、あるSМクラブのママと深夜に来た店なのだ。青い屋根のマンションは道を説明するときにママが言ったマンションだったのだ。
「あの青い屋根のマンションあるでしょ。あの手前を左に曲がって」
 その言葉を思い出した。声のトーン。甘い響き、そのすべてを思い出した。しかし、それが誰だったのかは思い出せない。深夜までやっているということで訪れたのに違いない。ちょうどいいと思って車を停めたが閉店していた。最近は深夜までやっている店は少なくなった。
 もし、店の中まで入ることが出来れば、きっと、もっと、たくさんのことを思い出せたに違い。今度、昼間にでも来てみようか、と、そう思ったとき、突然、思い出した。このイタリアンレストランを探したのは今回で数度目で、過去に探したときには、全て見つからないまま諦めたのだ、と。それを思い出したときに見ていたのは、多摩川の向こうの住宅街の灯りだった。あのとき、カーナビに登録しておけばよかった。昼間行こうとしても、あの店は見つからないのだ。だから、今夜、ダメ元で探してみようと車を向かわせたのだった。せっかく見つけたのに、何もしなかった。いや、カーナビでの地図は記憶したような気がする。記憶したような。その記憶が年齢で不確かになって来ているのだ。いや、元々かもしれない。
 何しろ、その店を最初に探したのは、まだ、三十代の頃、今から二十年以上も前のことなのだ。
 しかし、その店はあった。深夜営業はしていなかったが、確かにあったのだ。
 確かにあったのに、どうして名前ぐらい確認してこなかったのだろうか。そうなのだ。その店の前では、一緒に来たSМクラブのママが誰だったのか、そのことばかりに気をとられていたのだ。
 何があったのだろうか。何の話をその店でしたのだろうか。その相手はどこのクラブの誰だったのだろうか。ママだということは覚えているのに、他のことはいっさい思い出せないままなのだ。
「あの青い屋根のマンション」
 その甘い響きだけが鮮明な記憶となって蘇った。しかし、それだけだ。いや、もう一つ。そのとき、はじめて食べたティラミスが最高に美味しかったのも思い出した。しかし、そこまでなのだ。
 思い出せないので、そのときのことは美しい思い出のような気になっているが、嫌な話だったような気もする。思い出さないほうがいいのかもしれない。
 若さとはそんなもので、老いるとはそんなものを隠すためのものなのかもしれないのだから。

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