観ていて身も心も引き締まるような映画に、時々出会います。
昨日観た「サンドラの週末」がそうでした。
しかし・・・、二日連続でそういう作品にぶつかるとは思いもしませんでしたね。
河瀬直美監督の「あん」、粛然とした気持ちになる作品でした。
露店に毛が生えたような小さな店「どら春」で、中年男の千太郎は今日もつまらなそうな顔をしてどら焼きを売っています。どら焼きの皮を焼く手つきはこなれていて、彼が長く食べ物を扱って来た男であることがわかります。しかし、肝心のあんこは一斗缶に入った業務用。あんこを作るのは、大変な手間がかかるのです。
そこへふらりとやってきた老女。「吉井徳江」と名乗った彼女は店でバイトをしたいと申し出ます。一度は断った千太郎ですが、徳江がタッパーに入れて置いて行ったあんを一口食べてその絶妙さに仰天、彼女に手伝いを頼みます。
「お天道さまが顔を出す時間」から仕込んだ手作りあんは評判となり、どら春の店先には開店前から行列ができるほどに。
しかし、それもほんのつかの間のことでした。突然、客足がぱったりと途絶えます。
徳江がかつてハンセン病を患っていたことが噂になったからでした。
野村芳太郎監督、松本清張原作の「砂の器」のラストで「ハンセン病は完治する病気であり、患者は続々と社会復帰している」といった意味の字幕が出ます。
しかし、現実はそうではない。そのことは本作を観るとよくわかります。
徳江の願いは、ほんのささやかなものでした。
一度でいいから社会に出て仕事をしてみたい。賃金なんて安くていいから、人と関われる存在になりたい。
たったそれだけの希望を、世間はいとも簡単に打ち砕きます。
千太郎は療養所で暮らす徳江のもとを訪ねたとき、彼女の友人の良子にこう言われます。
「私も、働いてみたかった・・・」
手は不自由だけれど洋菓子作りがうまかったという良子も、一人の社会人としてきちんと仕事をしたかったのでしょう。人の世と繋がっていたかったのでしょう。
徳江はほんの少しの間でしたが、間違いなくどら春の看板店員でした。どら焼きの皮を作るのにはちょっと苦労してたけど、きちんと接客もできたし、常連の女子中学生とは仲良くなれたし、何よりもあんを作る姿勢は真摯そのものでした。
そんな彼女から、せっかく見つけ出した「人生の楽園」を奪い去ったのは何だったのでしょう。
あんを作るとき、徳江は何度も何度も小豆に話しかけます。お礼を言ったり、励ましたり、まるで子供に語りかけるように。
かつて子供を授かりながら産むことを許されなかった彼女にとって、あんは「子供」そのものであったのかも知れません。
そんな徳江にとっての、もう一人の子供。それが千太郎でした。生まれていれば彼と同い年くらいであったろう我が子への想いを、彼女はあん作りの道具とともに千太郎に託します。生きた証を残すことは、全ての人間が天から平等に与えられた権利。徳江はその権利を立派に行使したのですね。
人の世は無慈悲で汚濁に満ち溢れているけれど、決して底なしの地獄ではない。
社会制度が人間の肉体を牢獄に押し込めても、生きる意味や尊厳を根こそぎ奪い去ることはできない。
憎しみよりも寛容さを。醜い叫び声よりも、か細いけれど温かな囁きを。
人がこの世をより良いものにしようと思うなら、真に大切にすべきはこのことではないか。
本作は、それを観る者に強く優しく語りかけています。
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