最近、夜勤明けで映画を観るのがとんとキツくなりました・・・。
でも、今観とかないと絶対に損するよなあ、と思い直して眠気をこらえつつ足を運びました。
「セッション」。
眠くなるどころか、頭を何度もド突かれて「寝るなコラぁ!」と怒鳴られ続けているような気分になりましたな。ええ、すっかり目が覚めましたわ。
この映画、何が凄いと言って、フレッチャー教授役のJ・K・シモンズの肉体、あれほど観る者を圧倒するものはないですね。
あの鍛え上げられた筋肉ですが、あれはボディビルとかスポーツみたいなものとは全く別種。他者を圧倒し、痛めつけるための筋肉だと思いました。
つまり、軍人の筋肉。
フレッチャーは自分が理想とするミュージシャンを育て上げるため、自らが選抜してきた生徒をとことん追いつめ怒鳴り散らし、罵言を浴びせて、彼らを精神的に殺していきます。叫び声は銃弾であり、肉体は銃。だからフレッチャーはいつも身体にぴったりと密着した黒いシャツを着ているのですね。
この武器に殺されなかった者だけがフレッチャーにとって価値ある生徒となるわけで、だから彼の「教育」は、戦場そのものと言えるでしょう。
ほぼ性格破綻者と言っていいフレッチャーと、次第に彼の手管にはまって変貌していく純朴な生徒・アンドリューの反目と対決のドラマは物語の素材としては無類に面白いです。異常心理スリラーのカテゴリーに入れてもおかしくないくらいスリリングで、「鬼気迫る」という表現が生ぬるく思えるほどの凄みに満ちた作品でしたね。
ただ、観ていて「ちょっとマズいな」という気がしました。
本作は飽くまで「ああいう人たち」をモチーフにして物語を描出しているだけであって、肯定も否定もしていません。
でも、あれを絶対に勘違いして捉える人が出てくると思うのですよ。
フレッチャーは一流のミュージシャンを生み出すためならどんな手段でも使います。個々の生徒を暴力的に追いつめるだけでなく、互いに反発し合うよう仕向けたり、特定の生徒が孤立するよう細工したりと、人間関係にまで手を入れて彼らを思いのままに支配しようとします。
これって教育者としては、やってはいけないことじゃないですかね?
フレッチャーのしていることは結局、生命を創造しようとしたフランケンシュタイン博士と同じような「暴挙」に等しいと私は思います。
挫折を味わい、そこから這い上がらなければ一流への道は開けない。「『Good Job』は危険な言葉だ」というフレッチャーの持論も一理あります。でも、人為的に挫折を作り出し、そこへ生徒を落とし込んで痛めつけるというやり方は完全に間違っています。
たぶん、フレッチャー式の教育は「第2のチャーリー・パーカー」などではなく、「第2のフレッチャー」を生むだけのことしかできないでしょう。
本作のラストを見て、私はそれを確信しました。
この優れた人間ドラマを観て、「そうだ!これからの教育はこうでなければ!」と勘違いして暴走するバカな教育官僚や教員が出てこないよう、祈るのみであります。
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