「アーティスト」でアカデミー賞を総なめにしたミシェル・アザナヴィシウス監督の新作は意外にも、チェチェン紛争を題材にした極めて重い社会派ドラマでした。
大国のエゴによって虫けらのように踏みつぶされていく小国の人々。親を殺され行き場を失った夥しい数の孤児。21世紀になっても終わることのない醜い紛争(と言うよりは一方的な軍事介入)の姿が、劇映画とは思えないようなリアルさで観る者の胸に迫ります。
EU人権委員会の職員であるキャロルが、口の利けなくなった少年・ハジを引き取り、少しずつ心を通わせていく件りがあります。これについて意地の悪い人は「メロドラマっぽい」「嘘くさい」と冷笑することでしょうね。
確かに、たった一人の孤児に施しを与えたところでどうなるものでもありません。他にも孤児はたくさんいる、その子らの面倒は見ないのか? 所詮は安っぽい自己満足じゃないのか?
そんな声が聞こえてきそうです。
でも、少なくともキャロルは確実に「一人」を助けています。何もしなければ「ゼロ」なんです。エラそうに人の行為を批判するだけで何もしない人間よりは遥かにマシ。全ての孤児を救えないかも知れないけれど、それでもその中のほんの僅かな子供だけでも陽の当たる場所に連れてくることができるなら、それはとても素晴らしいことなのではないでしょうか。
私はキャロルの行いは間違ってないと思います。絶対に。
本作は、キャロルとハジの心温まるエピソードだけには終始しません。
ある日突然、ひょんなことから招集され戦場に連れてこられたコーリャという青年の凄まじい地獄巡りも描かれています。
右も左もわからないまま軍隊組織の中に放り込まれ、理不尽ないじめ、罵倒、暴力にさらされて追いつめられていくコーリャの姿を見て、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」を連想する人も多いでしょう。
しかし、「フルメタル・・・」の海兵隊員たちは少なくとも自分たちが軍隊に入るということに自覚的でした。だからある程度の心構えもできていたはず。
コーリャにはそんなゆとりすらありませんでした。ロクな訓練や教育もないままこき使われ、殴られる日々に、彼は少しずつ心のバランスを崩していきます。そして、痛めつけられるより痛めつける方に回ることを覚えるのです。まるで、いじめられっ子がいじめる側について自分の身を守るように。
以前は「くまのプーさん」のような善良な顔をしていたコーリャですが、死体処理係を経て前線に出てからは赤鬼のような残忍さをもって民間人を殺します。彼の仲間たちも同様。他者への共感や「痛み」に対する想像力を失った人間の下劣な言動は、観る者の心を凍りつかせずにはおきません。
ところが本作はその一方で、そんな彼らを単純な鬼畜野郎として描くことを避けています。
そのことを如実に示したのが冒頭部分です。数名の兵士がある家を襲撃し、持ち主の夫婦を射殺。家の中から赤ん坊の声がするので一人の兵士が銃を構えて内部をチェックします。中には怯えて泣き叫ぶ赤ん坊が。この子の両親を殺した兵士が今度は赤ん坊まで殺すのか、と思っていると・・・、彼は赤ん坊に優しくおしゃぶりをくわえさせると仲間たちに「異常ない」と告げて去っていくのです。
鬼のような兵士が一瞬だけ垣間見せる善良さ。これには粛然とせずにはいられませんでした。
安直なヒューマニズムに流されず、同時に上から目線で他国の紛争を告発する傲慢さから距離をとるという姿勢を貫いた作品創りを成し遂げたミシェル・アザナヴィシウス監督の強固な信念に敬意を表したいです。
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