古いマンションには階段がなく、五階まで重いカメラ機材を抱えて昇った。薄いグリーンの鉄の扉は、鉄ながらにその薄さが分かるような簡素なもので、その上、ところどろにある薄い緑が剥げた場所からは、何故なのか濃い緑が露出していた。そして、隣のドアにも、その隣のドアにも表札がかかっているのに、そのドアにだけ表札がなかった。
チャイムのようなものを押すと、しばらく待たされた。もう一度チャイムを押すべきかどうかで悩んでいると、ドアが内側から開けられた。感じのよさそうな中年の男だった。そして、実際、この男は感じのいい男だった。マニア風俗であるから、室内が怪しくないということもない。しかし、そこにあるものも、そこにいた女性たちも、マニア取材では見慣れたものばかりだった。
少しも怪しくない。
少しも怪しくないのだが、筆者は思った。ここまで来るマニアは、けっこう怖いだろうな、と。そして、その怖さも、この店の遊びのひとつになっているのだろうな、と、そう思ったのだ。
取材を終えて、記憶を辿りながら駅に向かうと、来るときには気付かなかった喫茶店があった。まだ、商店街までは距離がある。そんな場所にある喫茶店なのに、ガラス戸から本格的なサイフォンが並ぶのが見えた。巨大なコーヒーミルがレジの横にある。
そんな店のコーヒーは格別なものだ。
最近の性風俗は、いや、最近の遊びというものは、どれも親切丁寧で分かりやすく、しかも便利になっている。お客として考えるのなら、それでいいのだろうが、筆者には寂しい。辿り着くのが困難で、辿り着くまでにドキドキと不安にさせられ、結果、たいした刺激もないような性風俗でも、その後に飲むコーヒーには格別の味があったものだ。そんな性風俗、そんな官能、それが電子書籍時代に、もう一度再現してくれれば、と、筆者はそう思っている。
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