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2015年02月11日14:36

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課題小説

「絵を変えたんですね」
 賢治は店に入ると、狭いカウンターの中でワイングラスを磨いている店主に話しかけた。
「いえ、その絵は、この店をはじめたときから、そのままの絵。レオノール・フィニの偽物ですよ。リトグラフでもプリントでもなく、別の画家の描いた偽物。リトグラフよりも安い偽物ですよ。でも、私は好きなんです。限りなく似ているのに、まったく違う、この偽物の絵が」
 そう言えば、この話を以前にも聞いたことがあったと賢治は思いながらカウンター席に座る。店主は注文も聞かずにモルトウイスキーと水を一対一の割合でグラスに注ぎ、それを出した。賢治はそれを口元まで運び、しかし、口は付けずに、そのままカウンターに戻した。
 そうしたことを彼は何度か繰り返した。
「あれ、コルトレーンをかけるなんて珍しいね」
「いえ、この店では、もっとも多くかけられているものですよ。高畠さん、少しお疲れのようですね」
「先日まで取材で大阪にいたんだけど、でも、疲れるというほどの仕事はしてないんだけどなあ。あの、トイレは、店を出て左の奥だよね」
「はい」
「よかった。変わってなくて」
 賢治は、まるで、何かをリセットしようとしているかのような思いで店を出た。雑居ビルで、トイレはフロアーの店で共用していた。彼はそのトイレで用は足さずに鏡だけを見た。そして、用も足してないのに手だけを洗い、店にもどった。もどると、彼の友人の押切が彼の席の隣に座ってビールを飲んでいた。
「久しぶりだな。おめでとう」
 押切の隣に座り彼のビールグラスに賢治は自分のグラスを重ねた。大きなグラスに小さなグラスが当たり、鈍い音がした。
「これ、高畠さんにはもらって欲しくて、持って来ました」
「ああ、読んだよ。いいルポだったな」
「ありがとうございます。高畠さんの指導のおかげです」
「まさか。オレなんて、自分の本も出せない、ただの編集者なんだから。あれ、これ、サインがないよ」
「そんなこと出来ませんよ」
 賢治はグラスの中のウイスキーを一気に胃に流し込んだ。そして、店主に「水くれる」と、言った。あえて二杯目は要求しなかった。
「ちゃんとしたお祝いは、また、今度してあげるからな。ちょっと、今夜は女房の具合がよくなくてね。これから夕飯の買い物して、食事の支度しなきゃならないんだよ。悪いね。そういうことだから、マスター、彼のこの分も含めて、お勘定してくれる」
「そんな、いいですよ。今夜ぐらい、私に払わせてください。高畠さんには、それでなくても、お世話になっているんですから」
「そうか。じゃあ、悪いな。それと、アドバイスじゃないけど、作家は一冊目を出してからが勝負だからな。最初の四冊、五冊ぐらいまでは辛いだろうけど、乗り越えろよな。一冊目で間を空けると、食えない作家になっちゃうからな」
 賢治はそんなことを言いながら、席を立った。彼は、編集部の後輩であり、友人である押切の作家デビューを自分は心から喜んでいるのだ、と、そう思おうとしていた。そして、今、それを素直に表現出来なかったのは、女房の具合が悪いからで、それさえ治れば、そのときには、もっと素直に、この友人の出世を喜べるのだ、と、彼はそう思った。
 そう思いながら店を出ようとすると、サラリーマンらしき三人連れの男たちが、何やら大きく平たい段ボールの箱を持って店に入って来た。その箱を避けながら賢治は振り返って、友人に向かって、軽く手を上げ、そんな大きな箱を狭い店に持ち込む男たちを揶揄するように「何これ、絵でもプレゼントするの、この店に」と、言いながら出て行った。
 店の正面にエレベータがあるのだが、彼よりもわずかに早く乗った女性によって、その扉は閉められてしまった。彼は、トイレとは反対側の階段に向かった。店は地下にあるから、昇る階段はわずかなのに、彼は足を止め、上を見て、深いため息をついた。その背に笑い声が聞こえた。どの店から聞こえて来たものか、それは彼には分からなかった。

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