最近は、すっかり、昔ながらのいわゆる喫茶店というものを利用しなくなった。コーヒーは飲むときには喫茶店というよりはコーヒーチェーンのようなところで飲むことが増えたからだ。安い上に、たいていは広いので長居に気兼ねがないのだ。
しかし、ときどき思うことがある。自分が飲みたいのはコーヒーなのか、と。コーヒーが飲みたいなら、チェーンのコーヒーショップのコーヒーは十分に美味しくなった。満足出来る味なのだ。ただ、もし、そこに入るのがコーヒーが飲みたいからではないとしたらどうだろうか。たとえば、上質な時間を持ちたいのだとしたら。
この問題は、アダルト産業にもあった。筆者はSMは行為よりも会話なのだ、と、そう主張して来たのだが、その主張はどこにおいても認められなかった。驚くことに、会話をするためのパソコン通信の掲示板においてさえ、それは認められなかったのだ。
アダルト業界にいる人たちの好むところは、行為と行為のための挨拶。ようするに「こんにちは緊縛」だったのである。
サイト鹿鳴館は十八年目に入ろうとしているのだ。筆者が十八年前、これに関わりたいと思ったのは、サイトなら行為よりも会話に重きを置くことが可能かもしれないと思ったからだった。
しかし、その思いは叶っていない。
楽しいのは行為ではなく会話だ。それは鹿鳴館サロンをはじめたときにも考えていたことだった。ところが、鹿鳴館サロンでさえ会話よりも行為と考える人が多く集まるようになってしまったのだ。
セックスに対してSMはマイナーだった。SMの中においても、さらにマイナーな性があった。だから筆者はそれが好きだったのだ。
行為に対して会話はマイナーなのだ。会話は嫌われているのだ。筆者も嫌われ者だ。会話と同じように。
行為よりも刺激的な会話を求めてエロを作る者たちが、少しぐらいいてもいいのではないだろうか。しかし、鹿鳴館サロンも風前の灯。やはり会話を主体にしてはエロはダメなのかもしれない。会話を主体としてエロを作ること、行為よりも刺激的な会話を作り出すという作業、そこには、今も未練がある。未練があるのだ。
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