mixiユーザー(id:2938771)

2022年06月17日15:08

47 view

作家じゃないから、その3

 SNSは面白い。筆者はそこで、はじめて、文章でない文字列を目撃することになった。文章とは、何かを誰かに伝えるためのものだ。たとえ日記だったとしても、それは未来の自分に何かを伝えようとしている。ところが、SNSの多くは伝えることを目的としていなかったりする。伝えたいのではなく、自己の存在をアピールしているだけなのだ。どちらかと言えば犬の遠吠えに似ている。
 編集者に成りたての頃、編集長に、しばしば、言われたことがある。
「レポーターに興味持たせてどうするんだよ。取材対象に興味を持たせるのがレポートだろうが」
 自分は何を見たのか、自分は何を聞いたのか、自分がどう感じたのか、自分はどう思ったのか、そうしたものは要らない、と、そう彼は言うのだ。お前の感想にも意見にも、そもそも、お前なんかに読者は興味がないのだ、と、そういうことなのだ。それなら、インチキでもいいから、多くの人がそれを見た、そのように言われている、誰もが感じたはず、一般的にそう信じられている、疑われている、と、そのように書くのだ、と、そう言うのである。
 リンゴがある。そのリンゴはどんな色か、どこで売られているのか、どこで作られたのか、美味しいかどうか、それを伝えるのが文章であって、自分はリンゴを見た、リンゴを買った、美味しいと思った、と、そちらは必要なら書く程度の補足情報でしかないということなのだ。
 ところが、SNSは、まさに、その逆になっている。一般的な情報は極力排除し、それを書く自分だけをアピールしようとしているのである。
 たとえば、美しい風景がある、美味しい物がある、それを書くことで、美しい風景を見て楽しめる自分をアピールする、美味しい物を知っている自分をアピールする、それがSNSというもののようなのだ。しかし、そのアピールは悲しいことに、書き手の優位性には繋がらない。しかし、それが繋がらないとう現実をSNSの多くの書き手は知らないのだ。
 グルメについて書いたり、映画について書いたり、小説について書くことで、一流の料理人や傑作映画の監督や良い小説の作家と自己を同一化しようとしているのである。下手な文章でも、文章を書くのは大変だが、素晴らしい小説を読んだと書くのは、かんたんなのだ。かんたんなのに、読んだと書くだけで、その作家と自分を同一視してもらおうというのだから、これは虫のいい安易なアプローチなのだ。
 リンゴがある。編集者はそのリンゴについて語る。しかし、作家は違う。リンゴの背景にある人生を語る。SNSの書き手は高級なリンゴだと語る。ゆえに、SNSの書き手のものは読みたくないのだ。高級なのは分かるからどうでもいいからなのだ。それは買ってみればいいことだからだ。
 編集者は、そのリンゴを正しく読み手に伝える。しかし、それも読みたいほどのものではない。カタログを取り寄せればそれでいいからだ。
 作家は違う。そのリンゴが殺人事件の謎を解くカギとなることを語る。そのリンゴの生産者の飽くなき研究について語る。そのリンゴが高級店から、たった一つ盗まれたリンゴであることを語る。だから読みたいのだ。
 リンゴについて語ろうとする作家に、しかし、編集者は言うかもしれない。
「殺人事件はこの雑誌に相応しくない」
「リンゴのある官能風景を書きましょうよ」
「リンゴが誰によって齧られるかで人生の悲哀を書いてください」
 そんな編集者に、作家は言うかもしれない。
「そんなもの書けるか、書けるものなら、お前が書け」
 書けないのだ。書けないからこそ、編集者は作家に書かせたいのだ。自分で書けるぐらいなら編集者は作家になっているのだ。書けない。だって、作家じゃないんだから。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年06月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930