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2022年06月03日15:57

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迷子の美学、その11

迷子にとって散歩とは高尚なトイレ探しである。

 筆者ぐらいの迷子の達人ともなれば、日常が迷子なのだ。自分の家の前で目を閉じて三回転もすれば西も東も右も左も分からなくなる。これが宇宙でなくてよかった。宇宙なら上も下も分からなくなるところだ。
 さて、迷子で困ることは二つ。予定の時間に到着しない可能性とトイレ事情だ。予定の時間に到着しないかもしれない可能性は、筆者ほどの達人になると、まあ、ほとんどない。そうした重要な待ち合わせでは迷子にならないからではない。それに合わせて時間に余裕を持たせるからだ。通常の待ち合わせは一時間。少し重要な待ち合わせなら二時間前から筆者は現地にいる。そのために、ノートパソコンを持ち、電子書籍端末を持って歩いているのだ。時間つぶしには慣れている。もしかしたら暇つぶしにおいても筆者は達人の域にあるのかもしれないが、そちらは分からない。
 困るのはトイレなのだ。都会で迷子になってさえトイレには困る。地下鉄の駅のトイレはたいてい改札の中にある。焦っているあまりにスイカで改札を抜けると同じ駅で出るのが困難になる。駅員に迷惑をかけることになるのだ。だからといってトイレだけを借りるのは、なんとも申し訳けない。仕方なくトイレに入って一駅移動し、その駅から元の駅に歩いて戻ろうとして、また、迷子になったりする。
 コンビニのトイレはいい。借りたら何か買えばいいのだ。それで借りは返したと納得出来るからいい。
 公園のトイレも最近はどこも綺麗なので使いやすい。問題は迷子になっているような時にかぎって公園が見つからないところだ。
 トイレを目的に喫茶店やファミレスに入るのもいいのだが、そこでコーヒーなど飲むものだから、余計にトイレが近くなる。だからといって水分補給に制限をかけるのも危険だ。何しろ、どれほど歩くことになるかが迷子には分からないのだから。
 ただ、いいところもある。
 普通の人は、あえて散歩をしなければならないらしいのだ。筆者は自慢ではないが、散歩のような無駄な時間の使い方はしたことがないのだ。無目的には歩いていない。常に目的を見失って歩いているだけなのだ。トイレ探しなどは特に目的を見失わせる。目的地を見失って迷子になっている最中にトイレに行きたくなり、今度はトイレを探す。トイレが見つかると目的が達成されたようで満足し、最初の目的地のことは忘却したりする。それも、また、迷子の楽しみの一つなのだ。
 トイレを探す。目的はしっかりしている。それでいて、到着地には意味がない。トイレはあるが、そこに来た意味はない。そうした意味でトイレ探しは散歩のようなものなのだ。いや、それこそが散歩なのだ。ただ、これも、こんな時代なので、現在地から歩いて行けるトイレという情報ツールがスマホにはあるのだろう。それも、また、味気ない。あの限界を背負って脂汗をかきながらトイレを見つけたときの満足感を味合うことが出来なくなってしまうのだから。
 迷子にとっては、トイレ探しも、また、遊興の一つだというのに。
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