多様性と言いながら、ずいぶんと偏った思想や政治や価値観の中に人が置かれているような気がしていたのだ。何だか、多様性という言葉と同調圧力という言葉が同義語のようにさえ思えて来た。ビジネスの世界では労働者よりもコンサルタントが大事にされるようになっているような気がする。気がするだけなのだろうが、そんな気がするのだ。現場で働く人よりも、アドバイスをするだけの人のほうが高給を取り、偉いような気がするのだ。気がするだけだ。
学者と政治家の区別もなくなっているような気がする。学者が理論ではなく、政治を行おうとしているように、いや、行っているような気がするのだ。気がするだけだ。気のせいに違いない。
マスコミは事実を伝えるのではなく、啓蒙をはじめたような気がするのだ。これも、気がするだけだ。
社会を成り立たせるものは法律なのだが、法律を超えた圧力のようなものがある。たとえば喫煙だ。嫌煙権というのも、一つの権利だろうが、ここまでする必要があったのだろうか。タバコの次はお酒だと言っていた人がいた。筆者は、まさか、そこまでは、と、そう思っていたが、実際には、そうなった。禁酒法にはならないが、法律を超えてタバコもお酒も毒物扱いされている。
何かが違ってしまった気がするのだ。気がするだけだ。
そんな思いで、形状の違うものたち、他の星のものたち、それがゆえに価値観も死生観も異なるものたちに語らせてみたくなったのだ。こうしたことを考えるのには、極端なほうが面白いからだ。
まあ、生物でないとか、物質でもない人まで出してしまったのは、さすがに悪乗りかとも思うが、そこまでしないと、見なければいけない何かを見落とす気がしたのだ。気がしているだけだろうが。
さて、休憩も終わり、話を、あの奇妙な部屋に戻そう。
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