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2013年01月17日13:10

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1.17 この日を語り継ぐために 2013

あれからもう18年が経ちました。私は毎年1月17日にその日のもようを書いた2007年の日記を貼りつけることにしています。この作業も今年でもう7回目、もう何度も目にしたぞ、いささかうんざりだぞというかたもおられると思います。

年月を重ねると、いままで聞くことのなかった悲痛な体験の持ち主と出会うことも多くなります。そういうかたにくらべて、私はなんて無邪気で能天気で不謹慎かと考えてしまいます。でも下記のようなサイドストーリーこそ風化していくのではないかとも思うのです。

2007年1月17日の日記
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12年も経つとだんだん風化していくのがわかりますね。ニュースの扱いも関西ローカルでも以前ほどではないし。戦争を知らない我々は悲しみの共通体験みたいなものが少ないから、語り継いでいく必要があると思います。

その日前後の事をあえて感情的ではなくドライに書きます。もっと悲惨な目に遭っている方がたくさんいるのは百も承知です。不謹慎かもしれません。でも事実を歪めたくないからそのまま書きます。

○三連休明けの朝だったので、その日はあまり眠れず、その瞬間も半分起きていた。マンションの12階に住んでいたので揺れは相当だったが“止まらぬ揺れはない”と妙に冷静でよつんばいのままじっとしていた。

○前夜、友人たちが遊びに来てすき焼きをした。食器類をしっかり乾かすためにあえて食器棚の手前に置いたので、食器類は全滅した。

○鉄道が動いてないと聞いて、ほとんど寝れなかった私は“これでもうしばらく寝れる”と思った。

○当日夕刻のなんばWALKはテレビの地震報道をサカナに酒を飲もうと居酒屋はおっさんで満杯だった。職場にいても仕事にならず、一杯ということだろう。

○その日の大阪新聞(夕刊紙)は4ページだけ。思いっきり引き伸ばした写真数点だけで記事はなかった。

○元同僚S君が犠牲となる。彼は約1年前、父親の会社を継ぐために退社し、修業の毎日だった。自宅の芦屋旧家が全壊、S君と父親(つまり社長)が犠牲となり、母親と妹は助かった。
彼の安否を彼の会社に確認し、その悲劇を聞いて、みんなに伝えたのが私だった。こういう時、ドラマなどでは受話器を持ったまま目をつぶってうなだれて首を左右に振るのがおきまりのパターンだが、そのとき私がどんな行動をとったか一切覚えていない。S君が退社前、若手だけでスキーに行った時の写真があり、日付をみるとちょうど1年前の1月17日だった!

以上、ありのままの事実です。
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毎年、マイミクのかたから当時の記憶をコメントにていただいています。ここに書きとめて保存しておくことがどういう意味を持つかはまったくわかりませんが、今年もよろしくお願いします。どんなささいなことでもけっこうです。いや、ささいなことのほうが大切かもしれません。

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