■人生と文学と政治 (10)
●茫々として
ほんとうは、「人生と文学と政治」の第10回は
「人生的な、餘りに人生的な」とでもタイトルを
つけて、おしまいにする予定だった。
でも、もとの表題「人生と文学と政治」については
ほとんど書けていない。
「無駄話」と、余談な「道草」ばかり。
これでは、私の人生と同様、「日暮れて、道遠し」。
そこで、一気に結論を書けば、
私は、ただただ「人生的な」ものを求めていたし、
いまも、求めている。
そう言えば、それで十分なのだ。
私のほしいもの、それは「人生的な」もの、
それだけだ。
広津和郎と
芥川龍之介と
宇野浩二の
三人の話で
私の言いたかったことは、そこには
「人生派」と「芸術派」の
区別があったが、私はといえば「
みだりに悲観もせず、楽観もせず」
という
広津和郎により親しいものを感じた、ということだ。
そして、「敗北の文学」で登場した
宮本顕治は
「人生派」と「芸術派」にクサビを入れるかのように
「社会派」ならぬ、<
党の
絶対>を信条とする「政治派」を
登場させたのだ。
私は、明治の文豪の
夏目漱石や
森鴎外、
国木田独歩や
幸田露伴、
島崎藤村などを読み、「
自然主義文学」から
「
白樺派」の
有島武郎や
武者小路実篤、
志賀直哉を読んで、
倉田百三や
芥川龍之介を読んだ。
しかし、当時、
「人生派」と「芸術派」の隔たりは遠くなく、互いに
理解もあった。そして、「
プロレタリア文学」が吹き荒れたときでも、
その「政治派」と「人生派」と「芸術派」の距離は、そう遠くなかった。
そのことを、
菊池寛は、自分は「芸術は表現なり」という説を肯定する
としながらも、「ある文学作品の中には、芸術表現とは全く別の
価値がある」として、たとえば、
芥川龍之介の「蜜柑」や自身の
「
恩讐の彼方に」をあげ、
「私は、あの題材を芥川氏から口頭で聞いたとき、既に
ある感慨に打たれた。私の「恩讐の彼方に」という
小説も、あの筋書きは
耶馬溪案内記に載っているのだが
その案内記を読めば誰もが、既に或る感動に打たれるだろう」
と言っている。そして、
「文芸作品の題材の中には、作家がその芸術的表現の
魔杖に触れない裡から、燦として輝く人生の宝石が
沢山あると思う」
と書き、
「武者小路氏が、当代の青年を動かした力は何であろう。
それは氏の<芸術的価値>ではない。氏の<道徳的思想的価値>
ではなかろうか。当代の読者階級が作品に求めている
ものは何か。それは実に、<生活的価値>であり、<道徳的価値>
である」
とも書いた。 (
平野謙「昭和文学の可能性」P.40-42)
芥川龍之介が死ぬ寸前、そして、死んで、
宮本顕治が
「敗北の文学」を、
横光利一が「機械」を、
小林秀雄が
「様々なる意匠」を書くまでは、小説や評論には、
<人生と文学と政治>とを貫く「地下水脈」に似た
「時代を共有する」意識と連なりがあった。
その一端を示すためには、
広津・芥川・宇野のつながりの
ほかに、
芥川龍之介と
中野重治の邂逅にふれてもいい。
昭和元年「文芸雑談」の中で、芥川はすでに同人誌「
驢馬」に
発表されていた中野重治に注目していた。
中野と芥川を引き合わせたのは
室生犀星である。
「こちらが<波>の作者です。これが芥川君」
と言って、同人誌「裸像」に載った詩<波>の作者として、
室生犀星は
中野を芥川に紹介した。芥川は、大正14年5月に発表されたこの詩を
すでに知っていて、「ありゃぁ、いいね」とでも褒め称えたことが
あったに違いない。そして、「我々の前に横たわる戦線はただ一筋、
全無産階級の政治戦線あるのみだ」とする中野に対して、
芥川は「どうか文学を捨てないでほしい」と要望した。
(同書P.47-63)
そのような「時代と人々の連なり」を感じながら、私は
文学を読み、政治を知り、人生のことを考えてきたのだ
と思う。
そして、それは先人がたどった道のりであり、また、
つまずき立ち止まった箇所であった。
私も、そこで立ち止まり、頭をぶつけて悩んだ。
私の読書歴とは、そのような「時代と人々の連なり」の中で、
母の胎内で「
系統発生」を繰り返し生まれてくる赤ん坊のように、
それは、政治や文学や生活の、人々の「論争の歴史」でもあるよう
だった。
●満ち足りて
そして、きのう
「雲泥斎」さんの日記を読んでいたら、
「ヨーゼフ・Kと
岡潔」という題で、
カフカのことが
書かれていた。
保坂和志の指摘によれば、
カフカの『城』を
丹念に読んでも、城のある街の地図を描くことは
できないし、
『審判』をいくら読んでも、ヨーゼフ・Kの所属する
銀行の組織はどうなっているのかわからないという。
という書き出しで、書かれていた。
私は、「
保坂和志」という名前と「
カフカ」という文字に
目がいった。
そして、むかし読んだ、
野呂重雄「混沌の中から未来を」のなかの
「カフカと涅槃」という文章を思い出していた。
「最も幸福にして、また最も不幸なぼくが、
今、夜中の二時に寝につく時の霊感の特色は・・
或る一つの仕事だけを目指すものではなく、
何でもできるという性質のものだ。ぼくが盲滅法に
たとえば、《彼は窓から眺めている》という
文章を書きつけると、もう、その文章は完璧で
ある」
「君が家を出る必要はない。机に向かって、聞くのだ。
聞いてもいけない。ただ、待っているのだ。
待ってもいけない。ひとりっきりで、じっとしているのだ。
(そうすると)世界は仮面をぬぐことを申し出るだろう。
ほかにどうしようもないのだ。世界は歓喜に酔いしれて、
君の前で身悶えするだろう」
●そんなことを思い出し、私は思ったのだ。
「日暮れて、道遠し」と嘆くことは何もないのだ。
世に示現すること、それはそうたいしたことではないのだ。
私は、もう何も望むことはない。
待つことさえ、いらないのだ。
《私は窓から眺めている》
と、書くだけで、その文章は完璧であり、
世界は歓喜に酔いしれて、私の前で身悶えしながら
世界は仮面をぬぎはじめる
そのように思う。
■参考
・
「人生と文学と政治」資料
・
「カフカと涅槃」
■参照
・
人生と文学と政治(1)
・
人生と文学と政治(2)
・
人生と文学と政治(3)
・
人生と文学と政治(4)
・
人生と文学と政治(5)
・
人生と文学と政治(6)
・
人生と文学と政治(7)
・
人生と文学と政治(8)
・
人生と文学と政治(9)
・
人生と文学と政治(10)
・
人生と文学と政治(11)
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