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2015年09月27日04:34

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十月課題小説

美人女将に欠けたもの

「キャー」
 旅館の中庭で私が聞いたのは、まさに絹を裂くような女の悲鳴だった。何しろ、悲鳴を上げたのが妻の絹子なのだから、文字通りというものだ。
 悲鳴に続いてコウモリでも羽ばたくようなバサバサという音が聞こえ、私が目を上げたときには、絹子がたくさんの傘の中にしゃがみこんでいるところだった。
「いやだ。お父さん、そんなところにいたんですか。スズメバチの季節になりましたね。今年も悩まされますわ」
「そんなことより、傘ぐらい中居の誰かに運ばせたらよかろう」
「中居さんたちも、それぞれに忙しいんですよ。この旅館で暇なのは、お父さんぐらいのものですから」
 妻は不思議な女だった。若くして死んだ母の墓参りのときに、墓場で絵を描いていて、私と知り合ったのだ。幽霊画が趣味だと言っていた。それに興味を持った私がお茶に誘ったのだ。そして、そのまま、妻は旅館の若女将となるのだ。
 父は料理しか出来ない不器用な男ゆえ、旅館のことは、ほとんど母がやっていた。その母が死に、日本経済のバブルもはじけ、旅館経営は悪化の一途だった。私の大学卒業さえもが怪しい雲行きだった。
 そんな旅館を立て直したのが、まさに、妻だったのだ。ついでに、妻は元気をなくしていた父の気力も取り戻させた。本当に不思議な女なのだ。美人で気立てがいい。しかし、友達らしい友達もなく、幽霊画など描く趣味がある。まあ、友達がいないということでは私も似たようなものだった。しかし、私のは、そのまま暗い性格だから理解しやすいが、妻は社交的で明るい性格なのに友達がいなかったのだから不思議である。
「お父さん。また、心理学ですか」
 母よりも父に似ていた私なのだが、料理の才能はなかった。ただ、幼い頃より、計算が得意で、今は、名目だけの若旦那として、主に帳簿だけを面倒みていた。
「母さん。私は思うのだが、例の犯人な。あれ、爺さんじゃないかな」
 旅館の金がなくなった。たいした金ではない。月に一万円ばかりが三か月連続でなくなったのだ。しかも、妻が急に必要になるピン札ばかりを入れておく引き出しから盗まれていた。従業員とは考え難いのだ。
「お爺さんは、お金に不自由してませんよ」
「そこだよ。そこが盲点なんだ。誰もがそう思う。しかし、爺さんの通帳は誰も見たことがない。こっそり何かに使っている。そうだ。ギャンブルだ。まじめな男ほど、ああしたものに陥りやすいのだ」
「お父さんのプロファイリング。テレビのニュースでも一度も当たったことないじゃないですか。いえ、一度だけ当たったわ。廃校の体育館で見つかった衣服を破られて殺されていた女性。その犯人が強姦魔に違いないって、あれは当たりましたよね」
「ふん。警察発表では情報が少な過ぎるのだ」
 傘を拾い、再び胸に抱えた妻に、それ以上の皮肉を言わせまいと私は、もっとも尊敬するフロイド先生の本に集中した。そして、心の中で「今日は雨にはならないよ」と、つぶやいた。
「ああ、そうそう、お父さん。信矢の荷物を郵便局に取りに行ってやってくださいな。あの子、荷物を従業員宿舎宛てにしちゃったんで受け取れなかったんですよ」
「誰もいなかったのか」
「ええ、そんなことも珍しいんですけどね。まあ、あの子も、旅館に自分の荷物を届けさせたら悪いという程度の気遣いが出来るようになったということですかね」
「あ、ああ、それはいいとして、私は午後はちょっと忙しいんだよ。銀行が来るんでな」
「そうですか」
 銀行から人が来るのは本当だったが、郵便局に行けないほどではなかった。ただ、面倒だったのだ。
 再び、フロイド先生に集中しながら、私は思った。妻は完璧である。しかし、私は彼女を愛していないような気がするのだ。美人である。優しい。旅館経営の才能もある。父とも気が合っている。そして、何よりも、セックスがいいのである。セックスがいいなどと言うと、アソコの具合がいいように想像されるかもしれないが、そうではない。昼間は旅館の女将としてテキパキと働く妻が、床の中では従順な女となり、尻を触られることにも羞恥し、乳首を舌でころがそうものなら、小さく呻き、その呻いてしまったことに顔を染めるような女なのだ。しかも、結婚して十六年、変わらないのだ。しかし、私には自分が妻を愛しているという実感がないのだ。
 人はあまりに完璧なものは受け入れ難いのだ、と、聞いたことがある。それかもしれない。それかもしれない、と、そう思ったところで私の気持ちは晴れなかった。
 夕方から雨が降り始めた。近所に散歩に行くお客は、急な雨のために、妻の用意した傘を差して出かけた。私も、銀行員が帰るときに、妻が用意した傘の一本を彼に与えた。悔しいが、そうした妻の勘は不思議なほど当たるのだ。
 その雨の中、ずぶ濡れの妻が泣きながら戻って来た。裏口から私たちの部屋に飛び込むのを中居が見かけて私と父に知らせて歩いたらしく、私が部屋に戻ったときには刺身包丁片手に父がすでに立っていた。妻に何かした犯人はほどなく殺されることだろう、と、私はそう思った。柔和な父の顔が見たこともない鬼の形相に変わっていたからだ。
「見てください」
 妻が茶封筒を差し出した。水たまりにでも落としたのか、茶封筒はびしょびしょだった。
「うっかり水たまりに落として、中身のことが気になって、思わず開けてしまったんです。濡れてはいけないものなら早目に拭こうと思って。そしたら、そしたら、こんな本が」
 茶封筒の中の本を見ると、全裸の男が縛られたり、吊るされたりしている写真が多くあった。鞭打たれているものもある。ロングブーツの間で女のオシッコを飲んでいるらしいものもあった。
「まさか」
 間の悪いもので、その本の持ち主であるところの息子が帰って来て、中居から母の様子を聞いたらしく心配して走って部屋にやって来た。母がたいへんなのが自分のせいだとは知らなかったのだろう。いつもの、まっすぐで良い子のままに「母さん、だいじょぶ、何があったの」と、叫びながら入って来た。調度、私がお尻の穴を女に犯された男のページを見ていたところだった。
「あ」
 息子は苦悶の声を上げた。
「あ、じゃあ、ありません。何ですかこれは。情けない。まず、家のお金を盗んだこと、これが情けない。必要なら言えばいいでしょう」
 エロ本を買いたいから金をくれとは言えないだろう、と、私は思った。
「次に、盗んだお金でこんなものを買うというのが、情けないです」
 盗んだお金で買っていいものがあるのかどうかのほうが疑問というものだ。
「さらに、あなたも十四歳なんだから、エッチなことに興味を持つのは仕方ないとして、何なの、何なの、この汚らわしい趣味は」
 それは同意出来る。それは汚らわしい趣味だ。
「おっ」
 私はそこで思わず、広げた左てを握った右手てで打ってしまった。まるで、探偵が犯人を見極めたときにやる行為のようだった。しかし、犯人は息子と分かっている。
「何ですか」
 妻がそれを怪訝に思ったのか、息子を睨みつけるのを中断して私のほうを見た。父も見ている。息子も見ている。三人の期待は私のプロファイリングの答えなのだ。そうしたことを私は家族の前で何度もしてきたのだから当然である。
「つまり、これは、何だ。信矢は、つまり、女を犯すような性犯罪者にだけは絶対にならない、と、そういうことだ」
 誤魔化しである。そんなことを思いついたのではない。しかし、ここで引くというわけにも行かなかった。
「レイプ魔、猟奇殺人、そんな男にだけは絶対にならないということが分かったんだ。母さん。いいじゃないか。性の嗜好なんて、それぞれなんだ。残酷に女を犯したり殺したりする趣味が発覚したわけじゃない。信矢は逆なんだ。なあ、そうだろう。お前は女を犯したりすることだけは出来ない。そういう男なんだ。違うか」
「そ、そうだよ」
 妻とついでに父も納得させて、私は部屋を出た。いつものプロファイリングでは一度も納得したことのない二人を、ただの誤魔化しで納得させたことに複雑な思いを抱えつつ、私は、一人、中庭に出た。いつの間にか雨は上がり、中庭の質素な草木が満月の光を受けて怪しく揺れていた。
「父さん。ありがとうね」
 いつの間にいたのか、息子が声をかけて来た。
「あ、ああ、いいさ。母さんなあ。秘密だが、幽霊が趣味なんだぞ」
「幽霊」
「ああ、幽霊の話を集めたり、幽霊画を見に行ったりしているんだ。若い頃には自分でも幽霊画を描いていたんだぞ。趣味なんて、他人には理解出来ないものさ。ただ、ああした趣味は、ほどほどにな。身体にも注意して」
「いや、父さん。俺、責めるほうなんだよ」
「え、責めるほうって、じゃあ、女を」
「いや、俺の趣味は男を責めること。だから、女を犯す男にだけはならない。さすが父さんのプロファイリング、見抜かれたんだな」
 男が男を責める本は少ない。ゆえに息子は女に責められている男が出ている本を買ったらしいのだ。つまり、息子は責められている男ではなく、責めている女に自分を置き換えていたのである。
 趣味はそれぞれだ。
 そして、私が妻を愛せない理由は、私の趣味は女に責められることにあったからだ、と、気付いたのである。そこに気づいて私は、あのとき、思わず手を打ってしまったのだ。
 気が付くのが遅すぎた。プロファイリングしたかったのは私自身のことだったのかもしれない。フロイドが少しだけ嫌いになっていた。
 満月を見上げ、私は思った。月は冷たく寂しいのだろうな、と。そして、かぐや姫がSということだって考えられる、と。

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