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2019年12月06日17:32

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課題小説

 コインパーキングに車を停めエンジンを切り、そして、シートを後ろに倒して天井を眺め、その後、ゆっくりと目を閉じてため息を漏らし、再び目を開けると、ようやくピントが合った気がした。今度はゆっくりとシートをもどしながら前を見る。郵便局が見える。角にあったはずの電話がない。記憶が違っているのだろうか。いや、おそらく、携帯電話の普及で、郵便局の角に設置されていた公衆電話は取り除かれたのだろう。よくある話だ。
 車を降りると、もう、そこは郵便局だ。しかし、郵便局の駐車場というわけではない。看板を見ると十二分百円と表示されたいた。十二分百円ということは一時間五百円だ。では、一時間二十八分ではいくらになるのか。計算が出来ない。疲れているのか頭が壊れ始めているのか、そのどちらもなのか。
 郵便局から信号が見える。郵便局も交差点にあるのだが、そこには信号がない。ないはずだった。しかし、信号があった。これも記憶違いなのだろうか。あるいは、信号が作られたのかもしれない。しかし、後から信号を設置しなければならないほどの交通量ではない。
 記憶などというものは、そもそもが壊れているものだ。四十年前、この郵便局の角から電話をかけ、ここから十分程度の場所にある小さなマンションに向かったのだった。はじめての性風俗体験だった。いや、体験するはずだった。いや、体験したのだ。何を体験したのか。記憶が混乱した。やはり、少し頭が壊れかけているようだ。四十年前、私は十五歳だった。いや、十五歳では性風俗は無理か。年齢を誤魔化したのか。あるいは、年齢が間違っているのか。四十年前だという記憶が間違っているのか。分からなくなった。再び、ピントがずれた。右目の視力が極端に落ちているのかもしれない。そのために、少し目眩いがした。
「そこから左を見てください、そこに信号が見えますよね。その信号を渡ってまっすぐに歩き、最初の角を左に曲がると、四階建ての茶色のマンションがあります」
 四十年前に電話で言われたことを思い出すが、しかし、その記憶も正しいかどうかは分からない。何しろ、この街に来たのも四十年ぶりなのだから。信号を渡ると、右手に何かが見えると言っていたような気もしたが、それは思い出せなかった。病院。眼医者だったか。古い洋館の眼医者。いや、それは別の街だ。歯医者。病院だったかどうかも分からなくなった。
 信号まで、そんなことを考えながら歩いた。信号は青だった。私はそれを渡り、右側を見た。修理店があった。看板には「精密機械修理」とある。パソコンか何かの修理店なのだろうか。あるいは、ここ数年で急激に流行したドローンの専門修理でもしているのだろうか。看板はあるがシャッターは降りていたので、それは分からなかった。シャッターには、複雑な基盤のような絵がコミカルに描かれていた。もしかしたら、精密に出来た電気仕掛けの子供用玩具の修理をする店なのかもしれない。
 右手にそれを見ながら、最初の角を左に曲がった。四階建てらしい黒いマンションが一階屋、二階屋の多い街の中で目立っていた。それは低い建物ばかりの周囲に溶け込まない異様さだった。
 そういえば、あの時も、木造住宅の中に鉄筋コンクリートの茶色のマンションは異様に見えたものだった。それが黒く塗り替えられていっそう異様に見えた。しかし、大きさや形状には記憶がある。建て替えられたわけでも、記憶違いでもない、それは塗り替えられたのに違いない、と、確信した。
 このマンションにあったのだ。あの風俗店。遠くからこちらに来る数台の自転車が見えた。そういえば、あの日も、似たような光景を見たような気がした。はじめての性風俗店に入ることをためらっている内に、近づいた自転車の少年と接触したのだ。確か、歳の頃は十五歳ぐらいの少年。いや、十五歳は私の年齢だったか。
 混乱する記憶の中で、ひとつだけ、鮮明に蘇った記憶があった。あの時に目指していた性風俗店の名前だ。ペルソナという名のSМクラブだった。まだ、童貞だというのに、SМクラブを目指していたのだ。そして、少年と接触した。しかし、それ以上の記憶は蘇らなかった。
 黒いマンションの入り口の扉は閉まっていた。重厚な鉄の扉。マンションには珍しいものだ。マンション内の個別の部屋の扉ではない。マンションそのものの扉が重厚な鉄の扉なのだ。しかも、SМクラブとしてはありえないペルソナなる看板が扉にかかっている。四十年の時間がSМを人々に認知させたことは事実だ。しかし、SМクラブが看板を出すほどにそれはメジャーになったのだろうか。
 私は扉に近づき、重厚な鉄の取っ手を握ろうとして、ためらい、少し後ろに下がってしまった。どうして自分がそれを勝手に開こうとしているのかが分からなかったからだ。マンションに見えるが扉は閉ざされているのだ。普通なら呼び鈴とかインターフォンのようなものを探すはずだ。それを自分の家にでも帰って来たような気楽さで私は開けようとしていたのだ。
 突然に私が後ろに下がったからだろうか、自転車の少年と接触しそうになった。金属の高いブレーキ音が静かな住宅街に響いた。その音で、私は、それまで、その街が無音だったことに気づいた。
「何やってんだよ」
 それは私に向けられた言葉ではなく、私と接触しそうになった少年に別の少年がかけた言葉だった。自転車は三台だった。笑い声が響いた。笑い声は私の頭の中で反響し、目眩を促した。結果、接触は避けられたのに、私は倒れそうになり、慌てて取っ手を掴んだ。重厚な扉は「認識しました」と言った後で、ガチャリと音を立てた。私の意識は次第に薄れて行った。薄れ行く意識の中で、少年の声を聞いた。聞いたような気がした。
「あれ、ヒューマンルンバの初期型一号機だろ」
「あったんだな」
「あれの充電耐用年数って三十年とも五十年とも言われているんだろう」
「街の清掃のためのロボットなのに人間の記憶を持たされているらしいよ」
「憐れなものだな」

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