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2019年08月09日15:37

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全ては善し

私の親戚にも米国との戦闘で戦死した人が居るし、私の米国人とカナダ人の友人にも日本との戦闘で親戚が戦死した人が居る。

私はこの問題について私の親戚に聞き取りをしたが、誰も米国を恨んでいなかった。

また、外国の友人達も、その親戚も、誰も日本を恨んでいなかった。

それぞれが、それぞれの国と人々の為、命を捧げたと理解しているからだ。

かつて、日本と米国は不倶戴天の敵だった。

しかし今は、かけがえの無い友人同士だ。

それで良いじゃないか。

いったいいつまで恨みの炎を燃やし続けるつもりだ?

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被爆体験 消えていった叫び声
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5742067

 「どんな理由があっても、原爆は二度と使われてはならない」。長崎原爆の日の9日、千葉県市川市から平和祈念式典に参列した井上勇(いさむ)さん(88)は、今も体に74年前の傷が残る。3年ぶりに訪れた長崎で、世を去った友人らを追悼するとともに、被爆体験を語り継ぐ決意を新たにした。

 長崎商業学校に通っていた1945年8月9日、爆心地から約1.1キロの校舎で被爆した。14歳だった。学徒動員で魚雷の一部を製造していた。爆風で吹き飛んだ無数のガラス片が背中一面に突き刺さった。教室に「真っ黄色の煙が充満した」のを覚えている。

 友人4人とクラスごとに掘っていた防空壕(ごう)に逃げ込んだ。体が焼けただれ、男か女か分からない人たちが叫び声を上げながら避難してきた。居合わせた兵隊に「新型爆弾が落ちた。寝たらそのまま死ぬぞ」と言われ、友人同士で寝ないように声をかけ励まし合った。周りでは次々と人が息絶え、壕に響いた叫び声は消えていった。

 朝になった。友人らと「また会おう」と約束して別れると、体が一気に痛み出した。足は血で真っ黒だった。一緒に働いていた女性が背負ってくれた。長崎市内の自宅に向かう道すがら、路上に横たわる瀕死(ひんし)の人たちから「水をちょうだい」と求められた。

 「必ず持ってくるから、頑張って」。100回以上は言った気がする。だが、水を持って行ってやれず「うそを言ってしまった」。申し訳なさが今もこみ上げる。自身は生き延びたが、背中には88カ所の傷痕が残った。

 大学進学を機に長崎を離れた。定年後に市川市に移り、約20年前から小学校などで被爆体験の講話を続けている。副会長を務める市川被爆者の会の会員は60人いるが、講話をしているのは3人しかいない。「『伝えるのが役目じゃないか』とお願いもするが、被爆者と知られたくない人、いじめなどのつらい記憶を持つ人もいる」と井上さんは気遣う。

 講話を終えた夜は夢にあの日の光景が現れる。「だから話そうとしない人が多いんだろう」。それでも講話を聞いた子どもたちが力をくれる。「戦争がどういうものか初めて分かったとか、平和のために頑張りたいとか。そんなメッセージを読むと心にくる。弱音を吐いてはいられない」

 原爆も戦争もない社会にするために、これからも語り続けたい。午前11時2分、そう誓いながら静かに目を閉じた。【松村真友】
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