「殺しの指令は、突然やってくる」
心安らぐ暇もない。こうしてネカフェのフラット席に寝そべって、ごろごろ漫画を読んでいる今この瞬間にも猫が現れて「隣の個室の男を殺せ。さもなくばお前の命はない」などと、理不尽不条な宣告を下すかもしれない。ところで僕の左眼には、猫がいる――猫が棲みついている(いや、”沁みついている”と言ったほうが良いか……)
トイレにて小を終え――飲み過ぎた珈琲、内臓で濾しきれなかった残臭、白磁の小便器からモウモウと苦みばしったアロマ、苛立ち、肝臓辺りの職務怠慢を疑う時刻15:45。洗面台に立ち、手を洗い、顔を見る。鏡面にcopyされた自分の顔、近づけ拡大し、左眼をアカンベェする。どうやら猫は寝ているようだ。白眼の隅っこで、くうくう寝息を立てている。安心する。席に戻ろう漫画の続きが気になる。
今訓んでいる漫画、タイトルは『JMS48』、JMSは人面瘡の略で、48個の人面瘡を全身に宿した小太りの中年男が、人面瘡アイドルとしてデビューし、武道館で単独ライブを開くという内容、一応ホラー・サスペンスだ。
顔を洗い、備え付けのタオルで拭う。ボヤける視界。大きく息を吐く。洗面台の縁に手をかける。と、手に異質な感触。擦りすぎた右目が視力を取り戻し、視界が定まってくる。と、チラリ見える。僕の右手の下に、透明な銃――嗚呼、まただ。
「気分はどうだ?海布山(めやま)ナツ」
――僕にしか聞こえていない声、左眼に脈動を感じる。猫だ。僕が死体を埋めた猫。灰猫。その返り血を浴びた左眼、洗っても洗っても拭いきれなかった血のシミ、そいつがこうして猫の姿となって僕の視界に写り込み、話しかけてくる。
「今から指定する人物を殺さなければ、お前の命はないゾ?」
――もう何度も聞いた。猫が登場する時、毎回決まっていうセリフだ――まるで刑事が犯人を逮捕する時必ず「お前には黙秘権がある」と言うのと同じ。車掌が「乗車券を拝見します」と言うのと同じ。決まり文句。僕は、抑揚なく聞き返す。
「どうして?」
猫が呆れて伸びをする「よく飽きもせず毎回同じことを聞けるな?」――それはこっちのセリフだ。
「いい加減に慣れろ」
――と猫。しかしどうしたって、人殺しに慣れることなんてできない。僕はただの冴えない高校生にすぎないのだ。人殺しなんて……本当はしたくない。でも……
「A24客だ。ドア越しに撃てばいい。心配するな。標準を教えてやる」僕の苦悩も知らずに、猫が勝手にプランを立てる。
「……どんな、人なんだ?」「何が?」「これから僕が殺す人だ」「知ってどうする?」「そりゃあ……」言葉が続かない。猫、「例え対象が立派な聖職者だろうが、小汚い悪党だろうが、とにかくお前は、ソイツを殺さなければ、命を失うのだ。一つ聞いておくがお前は――対象によって”殺さない”という選択を取ることもあり得る、と?」
僕は考える――対象によっては?例えば知り合いだったり、親兄弟を殺せと言われたら僕はどうするのだろう?それは……その時になってみないと分からない。新見さんの顔が浮かぶ。きっと僕は、彼女を殺せない。何故だかそれだけは分かる。
トイレを出て左へ――最初に目についた個室のプレートD12。案内板を探す。あった。Aは→だ。その前にドリンクバーに立ち寄ろう。左に折れ、ドリンクバー、氷をたっぷりと入れ、ジンジャエールを注ぐ。心臓に届くよう、ゆっくりと飲み下す。心の温度を下げてしまいたい。飲み干し、カップを捨て、歩き出す。
(何も考えるな)――考えてしまうと、銃爪を引けなくなる。
(疑問を抱くな)――疑問を抱くと、足が止まる。
Aのゾーンを目指す。
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