一昨日、昨日と、午前中で終わる仕事が2件続いたので、午後は映画を観に行ってました。
一昨日は「83歳のやさしいスパイ」。
昨日は「MINAMATA」。
どちらも見応えのある、立派な作品でした。
「83歳・・・」は、チリで作られたドキュメンタリー作品。
特養施設内での虐待の事実がないかどうかを調査するため、入居者の家族から依頼を受けた探偵社が雇ったのは、何と、83歳の男性。入居者として施設内に入り、スマホや隠しカメラを使って、観察対象である女性が虐待されてないかどうかを調べ始めるのですが・・・。
困ったことにこのにわか探偵のセルヒオさん、大のお人好し。しかも入居者の9割が女性なんで、すっかりモテモテに。慣れない道具をなんとか使いながら内偵を行う一方で、悩める女性利用者の相談役みたいになってしまうのです。
ここで見えて来るのは、国の東西を問わず深刻化している高齢化社会の歪み。
施設のケアはとても適切で、利用者を楽しませるためのイヴェントも熱心に行うし、皆が自由に過ごせるような環境づくりにも怠りがありません。でも、利用者たちの心身は日々、衰えていきます。それは単に年齢のせいなのでしょうか。他の要因は考えられないでしょうか。
その答えが、セルヒオが探偵社に送った、最後の報告の中にあります。
このシーンは、涙なしには観られませんでした。
「MINAMATA」は、あの悪名高い水俣病と、その渦中に置かれた人々を描きつつ、「フォトジャーナリズムとはどうあるべきか?」を問うた力作でした。
ポール・ニューマンの「評決」のような「やさぐれ男の復権物語」というアメリカ映画的定型のスタイルを保ちつつ、良心と仕事の間で剥き出しの自己と向き合い苦悩する男のドラマとしても見応えのあるものになっています。
疎遠になった子供たちにカネを残すためと割り切って熊本県水俣市にやってきたユージン・スミスは、従軍カメラマンとして沖縄戦を取材した際のトラウマに苛まれつつ、深刻な水銀汚染の犠牲となって苦しむ人々にカメラを向けます。
やっつけ仕事でさっさと片付けるつもりだった彼の心にやがて蘇って来る、カメラマンとしての矜持。
「かつてアメリカ先住民は、写真は自分たちの魂を奪うと信じていた。だが本当に魂を奪われるのは撮影者の方なんだ」
被写体を客観的に捉える、などというのは傲慢でしかない。自分の魂を被写体に寄り添わせなければ、その姿を捉えたことにはならない。
その想いが通じたからこそ、あの「入浴する智子と母」という写真が世に出ることになったのでしょう。
「83歳の優しいスパイ」もそうでしたが、撮る側と撮られる側の信頼関係って、本当に大切なんですね。
「83歳・・・」の撮影クルーはセルヒオが入居して来るずっと前から施設側の合意を得た上で施設内を撮影し、入居者や職員達に受け入れてもらえるよう最大限の努力をしたそうです。
「MINAMATA」のユージンも、中立だとか客観的報道などという他人様感覚でなく、徹底して被害者達に寄り添い、暮らしを共にし、皮膚感覚で怒りや苦しみを感じ取ったからこそ、世界に伝えられて然るべき真実に肉迫できたのでしょう。
この2作は、「撮る」とは何か、「伝える」とは何かを深く考えさせてくれる、立派な作品でした。小賢しい技術論などで軽々しく語るべきではありませんね。
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