初代、藤原清衡が作ったのが平泉館(ひらいずみのたち)で3代秀衡が再整備しました。源頼朝が大軍で平泉を攻めてきた時、4代泰衡が自ら平泉館に火を放ち炎上しました。後世、柳之御所と呼ばれるようになります。■平泉館をめぐる空堀発掘によって会議や接待な
陸奥守に任じられた源頼義は奥州を目指します。衣川柵の手前、月見坂(平泉)の脇に八幡堂がありました。月見坂は中尊寺の本堂へ至る上り坂になっていて、八幡宮は月見坂のすぐ脇にありますが、皆さん素通りするところになっていて誰もお参りしている人はいま
盛岡市の中心部にあるのが盛岡城で南部氏の居城でした。現在は公園として整備され、石垣や郭跡が残っています。南部氏の本貫は甲斐国南部郷でしたが源頼朝による奥州平泉攻撃に参陣し、陸奥を領するようになります。南部氏は武田氏と同じ甲斐源氏の系統で鎌倉
■前九年の役盛岡には前九年一丁目というバス停があります。そう、日本史で習った”前九年の役”の舞台で、今はすっかり住宅地となっています。前九年の役といえば河内源氏が台頭するきっかけとなった戦い。実質的な独立国家・安倍一族と朝廷側の争いで朝廷か
志波城とは征夷大将軍である坂上田村麻呂が造営した古代城柵で、蝦夷に対する最前線の城でした。志波城ができたのは蝦夷の首長アテルイを降伏させた翌年の803年(延暦22年)になります。もっとも蝦夷から見たら、平和に暮らしていた共和国になだれ込んできた
ザギトワ選手にマサルを送ったのが秋田犬・大館の秋田犬保存会。そして忠犬ハチ公の故郷でもあります。そうそう忠犬ハチ公の飼い主である上野先生は久居(今は津市)出身で久居駅前に上野先生とハチ公の銅像が建っています。■大館への道大館と聞いても土地勘
播州赤穂城に元禄時代の建物は残っていませんが筆頭家老だった大石内蔵助屋敷の長屋門だけは残っています。元禄14年3月14日に発生した松の廊下での刃傷事件を知らせるため、早かごが仕立てられ、江戸からわずか4日半という通常では考えられない早さで赤穂に到
忠臣蔵で有名なのが播州赤穂城。元禄の頃は海に面した城で、海が近いこともあり井戸を掘るわけにいかず、はるか先の千種川から上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水するシステムを構築していました。元禄14年、3代目だった浅野長矩が松の廊下で吉
稗田環濠大和郡山市にある稗田環濠。広い水堀が村を取り囲んで残っています。現在は5mほどですが往時の水堀は10m以上はあったそうで、西南には大規模な横矢がかかる張出がありました。平城京の羅城門から延びる下ツ道が西の境を通っています。稗田荘は仁和寺
大和郡山の近くに稗田(ひえだ)という集落があります。稗田と聞けば出てくるのは稗田阿礼です。記憶力がすごい人物で帝紀、旧辞を暗記し、太安万侶が稗田阿礼のしゃべる内容をまとめたのが古事記と言われています。古事記は神代における天地の始まりから推古
泉北高速鉄道・深井駅のすぐ近くにある株式会社ユニバーサルCEへ。以前は地下鉄・御堂筋線で「なかもず」へ出て泉北高速鉄道に乗り換えできましたが、みんな乗り換えるので、頭にきた南海電車が泉北高速鉄道からそのまま難波へ出るようにダイヤを変更。各駅
大和の番条環濠から少し北東に行ったところにあるのが若槻環濠。だんだんと村が集約し文正元年(1466年)以前には東西に長い環濠集落となりました。古文書がよく残っていて環濠の歴史が分かる珍しい事例になっています。この辺りには土豪若槻氏がおり、郷土記に
シャンシャンが1歳になった。見学整理券がいらなくなったとパンダ一匹に東京では騒いでいますが、関西人に言わせれば、”そんなん白浜のアドベンチャーワールドに行けば、いつでも5頭のパンダが出迎えてくれまっせえ!”です。先日、湯浅駅から大阪へ戻る時
斎藤さんの故郷である斎宮には何もありませんが、湯浅さんの故郷である湯浅には湯浅ふるさと会がありました。藤原氏だった武将だった宗重が湯浅を支配するようになり、ここを本貫とし湯浅宗重と名乗ります。平清盛が熊野詣している最中に起きたクーデター(保
応仁の乱の原因の一つになったのが畠山政長と従兄の畠山義就との家督争い。畠山家は室町幕府の管領で河内・紀伊・越中・山城の守護でした。畠山政長の居館「畠山館」があった場所が広川町の養源寺になっています。守護館で一角に養源寺堀が残っていて石垣は畠
湯浅の山城といえば湯浅城。ほかにも広城がありますが、さすがにこの時期、本格的な山城に登るのは無理です。ほかにないか探してみると白樫城がありました。しかも湯浅駅のすぐ裏。というわけで湯浅へ行ったついでに登ってきました。場所は満願寺です。現在の
湯浅といえば醤油発祥の地だけでなく、”稲むらの火”でも有名です。安政南海地震が発生し津波が襲った時、濱口梧陵という庄屋さんが藁の束(稲むら)に火をつけて避難路を確保し村人が助かった史実です。2次被害を防いだだけでなく、偉かったのがその後、住
お仕事で醤油発祥の地・湯浅へ。少し時間があったので町をぶらついてきました。鎌倉時代の禅僧が宋で修行して金山寺味噌を持ち帰り湯浅の人に製法を伝えます。味噌を造る過程でそれまで捨てていた、野菜から染み出した水分が、とても美味しいことに気づき、こ
大和を中心に活躍した戦国武将といえば筒井順慶、河内から大和に攻め込んできた松永久秀と戦っていました。大和の国人が筒井側、松永側などに分かれて戦ったため大和一帯は戦場となり、あちこちに環濠集落ができることになります。東大寺大仏殿を焼け落ちたの
1年ぶりに京都橘大学へ行ってきました。以前は学生相手に情報処理講座を担当していましたが、最近はWOC認定看護士講座だけを担当しています。受講生は学生ではなく北海道〜四国から集まった現役の看護士さん。教室でいつ倒れても大丈夫です(笑)。京都駅か
昨日はBLAST研究会。2002年度大阪地区で実務研修した中小企業診断士仲間が中心となってスタートした研究会で15年以上、続いています。BLASTという名前は『一吹きの風』を意味していて、沈滞化の激しい日本経済に吹き抜ける『一吹きの風!』という気持ちを込め
戦国時代は自力救済の時代。自分の身は自分で守らないといけませんので、発達したのが環濠集落で大坂の平野郷や堺など、たくさんあります。環濠集落とは防衛力を高めるたえに村の周りに水堀をめぐらせたものです。奈良の大和郡山の南東にあるのが番条環濠で、
「賤ヶ岳の七本槍」の一人として有名な片桐且元。大河ドラマ「真田丸」では小林隆が演じていました。豊臣方と家康の板挟みにあい最後は豊臣方に疑われて茨木城に退去します。「大坂の陣」の後、片桐且元の本家は竜田藩(法隆寺近くにあります)となりますが4