越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)牽牛子塚古墳に隣接し2010年に発見された古墳です。整備のために牽牛子塚古墳周辺の発掘をしている時に見つかりました。牽牛子塚古墳が八角形の墳丘で、しかも石室が2つあった合葬墓から斉明天皇と娘の間人皇女が被葬者
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)以前に行った時は竹林の中にある土の山の古墳でしたが、きれいに公園として整備されました。牽牛子はアサガオの別称で八角墳の形がアサガオに見えるところから名づけられました。最初は円墳と思われていましたが、天皇しか
軽便鉄道だった吉野鉄道が走り始めたのが1912年(大正元年)。国鉄吉野口駅から吉野駅(今の近鉄六田駅)間で開業します。吉野の木材輸送と観光客を運ぶための鉄道でした。吉野口駅からは山岳鉄道のようにひたすら坂を上っていきますが薬水駅を出発してすぐの
吉野の入口に薬水というところがありますが、ここにあるのが薬水城。調べても、ほとんど情報がないのですが「近畿の城郭」に縄張図が出ていたので登ってきました。麓に薬水八幡神社があり、石碑には松永久秀の弟である久忠が信貴山の毘沙門天を勧請した神社と
【下市御坊峯城】吉野に願行寺という一向宗の寺院があり下市御坊と呼ばれていました。東側にある本善寺(飯貝御坊)とともに一向宗の拠点でした。天正6年(1578年)、播磨の別所長治が信長を裏切り、三木合戦が始まります。また摂津の荒木村重も信長から離反
秋津城は吉野・下市口にあります。吉野郡を支配していた秋津氏の城と伝わっていますが、吉野は一向宗が強く石山本願寺と呼応していたこともあり、織田信長が筒井順慶に命じて願行寺(下市御坊)、本善寺(飯貝御坊)など吉野を攻撃しました。この時に秋津城も
一休さんで有名な京田辺市にあるのが田辺城。奥ノ城という地名にあります。昔は山の中でしたが今は田辺市役所や野球場のすぐそばの丘陵上にあります。バイパスを通すことになり1996年に発掘調査が行われました。丘陵の東斜面から石垣を築いた虎口が見つかり石
矢走城のすぐ西側の尾根にあるのが矢走西城。こちらには何の案内もないので適当に城めがけて直登するしかありません。直登すると出城のような郭に入れます。土塁などが残っていました。この郭から尾根道が続いて主郭に入れます。主郭の前には堀切があり、また
矢走(やばせ)近くを明日香から吉野を結ぶ芦原峠越えの街道が通るので、矢走城は監視用に造られたようです。この街道は北の平城京から南の藤原京を結んだ中ツ道の延長で吉野へ向かメインルートでした。矢走城の築造時期は室町時代とみられ、14世紀前半頃の土
近鉄名古屋線と大阪線が合流するのが伊勢中川駅です。伊勢中川駅の前に短絡線があり、伊勢中川駅に寄らずに列車が運行できるデルタ線になっています。デルタ線とは三角形状に敷設された鉄道線路の配線のことです。この短絡線を名古屋ー難波を結ぶ特急が走って
合同会社エムアイティエスは2月末が期末なので決算をしなければなりません。決算では財務諸表以外に別表などの作成が必要です。もっとも会計ソフトのfreee申告・法人税が会計からデータをもってきて勝手に作ってくれるので、とっても便利。出てきた数字などを