2021年の秋、トルコからベラルーシに飛ぶ旅客機。
その機内に乗るのは両国の人らしき者ではなく、誰もが憔悴した「外国人」ばかり。
あちこちで交わされる会話で、どうやらほとんどの乗客たちが中東域からの難民だとわかってくる。肌の黒いアフリカ系の姿も。
ベラルーシに到着した彼らはタクシーなのか何かの業者なのかわからない怪しげな車に乗せられてポーランド国境に向かう。
「料金を払え」と法外な金を要求され、渋々払う彼ら。
国境には物々しく有刺鉄線が張られている。業者たちはなぜか国境警備隊と話をつけて、有刺鉄線の下を潜らせて彼らを送り出す。
ポーランドは今やEU圏であり、もう大丈夫。ここから中継してくれる人を介してスウェーデンに逃れることができればひと安心。
しかし彼らの前には先の見えない森が立ちはだかっている。それをひたすら歩いて疲労困憊した、その時に現れたのがポーランドの国境警備隊。
ほっとする彼らだが、警備隊は彼らを手荒く扱いトラックに詰め込む。どこか安全な場所に収容してくれるのでは?という期待は裏切られる。警備隊が彼らを降ろしたのはベラルーシ国境で、なんとそこで彼らは追い返されてしまう。
まるで厄介者をたらい回しするような、どうしてこんなことが?
悲嘆に暮れる難民の家族たち。そしてその国境沿いには同じような行き場の無い難民たちが野晒しで、なす術なく滞留していた・・・。
これは実は、ポーランドとの関係が良くないベラルーシが、周辺の難民たちを良い条件でアクセスさせて、ポーランドへと不法に送り出し、彼の国の負担を増やして疲弊させ、不安定な状況も作り出す企てだった。まるで、仲の悪い隣家にゴミを投げ棄てる嫌がらせのように(そしてその背後にはプーチンも絡んでいるらしい)
しかしそれは映画では詳しく説明されないし、ベラルーシを非難もしない。
2時間半近い長尺の序盤がこんなにも救いようの無い痛々しさで、これはキツい映画を選んでしまったものだと暗澹たる気持ちにさせられる。しかしやがて、課せられた任務に苦悩するポーランドの若い国境警備隊員や、森で立ち往生する難民たちを独力で助けるする人道支援グループ、瀕死の難民を助けようとたまたま駆けつけた国境近くに住む女性精神科医らが次々と登場するに及んで、社会派ヒューマンドラマとしての「膨らみ」がましていく。
しかしその状況の厳しさは揺るがない。国の許可なしで怪我を負ったり体調を崩したり、あるいは妊娠している難民たちを医療機関で診るのは違法だし、難民申請をするにはいったんは退去せねばならない。国境警備隊の上司は、部下たちへの訓示で難民たちを野蛮人呼ばわりする。なぜにこうも頑なで不寛容なのか?それはベラルーシとの対立という「政治」が人道に優先されているからだ。
八方塞がりな中でも、心ある人は懸命に最善を尽くそうとする。ここで重苦しいストーリーに風を吹き込むのは、支援グループの一員である若い女性(名前は不詳)、彼女は言わば「人道アナキスト」みたいな、かなりパンクなキャラクター。そして他にも終盤に救いが少し覗く場面に和まされる。全員を救うことは無理でも、個人の善意が集まって1人でも助けることは大事だと。
映画は、アンジェイ・ワイダのかつての名画を彷彿とさせる、終始ぴんと張り詰めたモノクロ画面でそれを冷静な眼差しで描き抜いています。
何よりもこういう事実があったことを知ることができたのが大きい。これも映画の力だと痛感させられました。
【監督の紹介入り予告編】
https://youtu.be/PLmKilcuN3Y?si=dpozEqyP8NV2dRv_
監督アグニュシュカ・ホランドは、4年前にソ連によるウクライナの「飢餓政策」を描いた『赤い闇』や、ナチス占領下で隠れ住むユダヤ人を描いた12年の『ソハの地下水道』など、骨太の歴史ドラマを作ってこられた方。
ユリア役のマヤ・オスタフェシュカはワイダ作品の『カティンの森』や、個人的に隠れた傑作『君はひとりじゃない』に出演したベテラン女優。
そして最後に。この度のウクライナ戦争では、隣国ポーランドは全面的にウクライナからの避難民を受け入れた。
映画のそれと、いったいどういう違いがあるというのか?
それは「ウクライナを助けねば自分の国も危ない」という、やはり政治姿勢ではないのか?そこに差(境界)を作ってはいないか?
勃発直後にはこんな風刺画が出たことも付け加えておきたい。
ログインしてコメントを確認・投稿する